「楊梅小路」というからには、この小路沿いにヤマモモの木があったのであろうか。
平安時代、この小路沿いには宇多上皇の(うだじょうこう)の中六条院(なかのろくじょういん/六条院)などの邸宅があった。[1]

平成六(1994)年の右京六条一坊の調査[2]では、西大宮大路との交差点を東に入った地点で平安京造営からしばらくの間、右京六条一坊十四町内を自然水路が北東方向から南西方向に流れており、水路部分で楊梅小路が途切れていたことが判明した。

発掘調査[3][4](後述)によって、町小路との交差点を東へ入った地点や西櫛笥小路との交差点を東へ入った地点では、楊梅小路の路面上や側溝上で平安時代後期以降に井戸が掘られていたことが判明している。

この小路の右京部分は、平安時代中期以降の右京の衰退とともに衰退していったと考えられるが、昭和六十二(1987)年度の右京六条一坊の発掘調査[5]では、平安時代末期から鎌倉時代にかけて、皇嘉門大路との交差点を東へ入った地点で楊梅小路に面して町家が建ち並んでいたことが判明し、一概に衰退したとはいえないようである。

平安時代後期には、室町小路との交差点の北東角に小六条殿(ころくじょうどの/小六条院)という邸宅が造営され、たびたび里内裏(大内裏ではなく京内に置かれた内裏)として利用された。[1]
同時期には、白河天皇(→上皇→法皇)によって、六条内裏(東洞院大路との交差点の南東角)の造営や中院(なかのいん/室町小路との交差点の南東角)を譲位後の御所として利用するなど、一帯の再開発が進んだ。[1]
寛治元(1087)年、白河上皇はに六条内裏の改修を行ってこの小路の北側の敷地(左京六条四坊三町)を取り込み、南北二町を占めるようになった。[1][6]

白河天皇の曾孫にあたる後白河天皇(→上皇→法皇)も六条殿(西洞院大路との交差点の北西角)を譲位後の御所として利用した。[1]
後白河法皇は、建久三(1192)年三月十三日に六条殿で波乱の生涯を閉じている。[7]

貞和元(1345)年、日静(にちじょう/南北朝時代の日蓮宗・法華宗の僧)が北は六条坊門小路、南は七条大路、東は堀川小路、西は大宮大路で囲まれた土地を光明天皇(こうみょうてんのう)から賜り、本國寺(ほんこくじ)を創建した。[8]

応永三十二(1425)年の『酒屋交名』によれば、万里小路から町小路にかけて4軒の酒屋があったようである。[9]
また、この通り沿いの東洞院大路から西洞院大路にかけて多くの麹室(酒造りに欠かせない麹造りを行う場所)が営まれたようである。[10]

文正二/応仁元(1467)年~文明九(1477)年の応仁の乱はこの小路の左京部分を荒廃させ[11]、乱後は下京の市街の外に位置したため、この小路沿いは田園風景が広がっていたとみられる。[12]
朱雀大路の東西(概ね大宮大路~西大宮大路)は「中堂寺村」という集落が形成されたようであり、応仁の乱以前の町並みを描いたとされる『中昔京師絵図』には、大宮大路の西に「中道寺村(中堂寺村)」が描かれている。

本國寺は、天文五(1536)年に起こった天文法華の乱により焼失したが、天文十六(1547)年に同地に再建された。[8]

永禄元(1558)年五月に、京を追放されていた足利義輝(あしかがよしてる/室町幕府第十三代将軍)らが近江坂本に進軍して入京の機会を窺った際、敵対していた松永弾正(久秀)と三次日向守(長逸)が梅小路・中堂寺(中堂寺村?)に陣取ったという。[13]
また、ルイス・フロイス(ポルトガル人宣教師)の元亀四(1573)年五月二十七日付書簡には、織田信長によって焼かれた村の1つとして「中堂寺」の名が挙げられており[14]、戦国時代には中堂寺村に軍勢が展開したり焼き払われることもあったようである。

天正十八(1590)年、通りの左京部分は豊臣秀吉によって再開発された。[11]

慶長七(1602)年、北は五条(六条坊門)通、南は六条通、東は室町通、西は西洞院通で囲まれた地域に二条通と柳馬場通の交差点付近から遊郭が移され、「六条三筋町(ろくじょうみすじまち/六条柳町)」と呼ばれた。[15]
この時、楊梅小路は当初の位置から約26m北へ移設されたと考えられている。[3]

町小路との交差点を東へ入った地点の調査[3]では、楊梅小路が平安時代後期から室町時代まで機能していたことが明らかになったが、楊梅小路の路面上では16世紀代の遺構がほとんど見られないのとは対照的に17世紀以後の穴が多数掘られていた。
このことは、遊郭が移された時に楊梅小路が移設されたことを示しているといえ、当時仮に楊梅小路が機能していたとすれば移設されることはなかったと考えられるが、当時の楊梅小路は相当衰退していたとみられる。

遊郭は、寛永十八(1641)年に七条通の北方、千本通の東側(いわゆる島原)に移転した。[15]

江戸時代の楊梅通は、東は高倉通から西は醒ヶ井通までで、雪踏屋が多かったことから雪踏屋町通(せったやちょうどおり/せきだやちょうどおり)とも呼ばれた。[16][17]
大宮通以西には中堂寺(中道寺)通があり、千本通を経て中堂寺村へ通じていたようである。[18]

中堂寺村は、中堂寺大根(漬物用の茎大根)をはじめとする野菜の生産地であったという。[19]
千本通の西側に御土居(おどい/豊臣秀吉によって築かれた、京都市街を囲った土塁と堀)があったため、御土居によって村は分断されていたようである。

現在の楊梅通は閑静な狭い通りで、「生活道」というのがふさわしい。
中堂寺通は、千本通と御前通の間で京都リサーチパークによって分断しており、こちらも目立たない通りである。

本圀寺(江戸時代に徳川光圀[とくがわみつくに/水戸黄門]の庇護を受けて改称[20])は昭和四十七(1972)年に山科区へ移転した。[8]

平成十七(2005)年度の左京六条三坊五町の調査[2]では、町小路との交差点を東に入った地点で、楊梅小路路面の下で11世紀に属する土師器の廃棄場が検出され、路面は11世紀中葉以降に土師器の廃棄場が埋められた後に形成されたようである。
平安時代後期以降、路面中央部と北・南築地位置、側溝埋没後の南側溝上で井戸が掘られていたことが判明した。
また、楊梅小路の南側に面して、東西約13m、南北16m以上の範囲で室町時代の甕据付穴(甕を埋め込んだ穴)364基が検出され、地中に甕を並べた大規模な遺構が存在したことが明らかになった。
酒を醸造するための甕が並んだ酒倉の遺構と考えられ、中世の酒屋の実態を知ることのできる貴重な遺構といえる。


[1] 古代学協会・古代学研究所編『平安京提要』 角川書店、1994年、274~283頁

[2] 平尾政幸「平安京右京六条一坊」『平成6年度京都市埋蔵文化財調査概要』(財)京都市埋蔵文化財研究所 1996年

[3] (財)京都市埋蔵文化財研究所『平安京左京六条三坊五町跡』京都市埋蔵文化財研究所発掘調査概報2005-8 2005年

[4] 平尾政幸「平安京右京六条一坊」『平成2年度京都市埋蔵文化財調査概要』(財)京都市埋蔵文化財研究所 1994年

[5] 梅川光隆・木下保明・丸川義広「平安京右京六条一坊」『昭和62年度京都市埋蔵文化財調査概要』(財)京都市埋蔵文化財研究所 1991年

[6] 白河上皇の皇女の媞子内親王(ていしないしんのう/郁芳門院[いくほうもんいん])は伊勢斎宮を辞した後、六条内裏に居住したが、永長元(1096)年に早逝すると、翌年に六条内裏は「六条御堂」と呼ばれる仏閣とされた(『百錬抄』永長二(1097)年十月十四日条・『中右記』同日条)。後の萬寿寺(万寿寺)の前身にあたる。

[7] 『玉葉』建久三(1192)年三月十三日条

[8] 上村和直「平安京左京六条二坊五町・猪熊殿・本圀寺跡」『昭和54年度 京都市埋蔵文化財調査概要』(財)京都市埋蔵文化財研究所 2012年

[9] 『酒屋交名』(『北野天満宮史料 古文書』 北野天満宮、1978年、34~46頁)

[10] 一八号 応永二十六(1419)年「長阿請文」ほか(『北野天満宮史料 古文書』 北野天満宮、1978年、11~30頁)

[11] 『京都坊目誌』(『新修京都叢書』第17巻、臨川書店、1976年、302~303頁)

[12] 高橋康夫『京都中世都市史研究』 思文閣出版、1983年、「第30図 戦国期京都都市図」

[13] 『長享年後畿内兵乱記』永禄元(1558)年五月九日条

[14] 『日本歴史地名大系 27(京都市の地名)』 平凡社、1979年、990頁

[15] 京都市編『史料京都の歴史』第12巻(下京区) 平凡社、1981年、299~300・458~459頁

[16] 『京羽二重』(『新修京都叢書』第2巻、臨川書店、1969年、25頁)

[17] 『京町鑑』(『新修京都叢書』第3巻、臨川書店、1969年、288頁)

[18] 『元禄十四年実測大絵図(後補書題 )』

[19] 佐和隆研ほか編『京都大事典』 淡交社、1984年、620頁

[20] 京都市編、前掲書(下京区)、265頁