平安京大内裏の南側に面する大路で、この大路に面して、東から美福門(びふくもん)、朱雀門(すざくもん)、皇嘉門(こうかもん)という3つの門があった。[2]
造営当初の道幅は17丈(約51m)で、東西の大路では最も広く、平安京全体で見ても朱雀大路に次ぐ広さであった。
これは、宮中と世間を隔絶するためでもあったようである。[3]

平成元(1989)年度の左京二条二坊の発掘調査[4]では、堀川小路との交差点を東へ入った地点で、二条大路北側溝が平安時代前期から江戸時代にかけて順に南へ移動し、時代が下るにつれて二条大路の北側の敷地が南へせり出したことが判明した。
別の発掘調査[5](後述)によって、右京部分でも同様の現象が起きていたことが判明している。

平安時代、この大路沿いには厨町(くりやまち/役所ごとに京内に設けられた下級役人などの宿所)や朱雀大路との交差点の南東角に大学寮(だいがくりょう/官人(官僚)の教育機関)があったほか、東三条殿(ひがしさんじょうどの/西洞院大路との交差点の南東角)、堀河院(ほりかわいん/堀川小路との交差点の南東角)、冷泉院(れいぜいいん/大宮大路との交差点の北東角)などの邸宅が並び、邸宅街の様相を呈していた。[2][6]
平安時代中期以降、右京の衰退と度重なる火災による大内裏の衰退後も、この大路の右京部分は嵯峨へのルートとして重要視された。[7]

平安時代後期に発展した白河では、この大路の延長部分(二条大路末)が中心線となった。[8]
『平治物語』巻二には、平治元(1160)年に起こった平治の乱におけるこの大路上(堀川小路との交差点付近)での源義平(みなもとのよしひら)と平重盛(たいらのしげもり)の戦闘シーンが登場する。

嘉禄三/安貞元(1227)年に内裏が未完成のまま焼失して以降、里内裏であった「閑院(かんいん)」(二条大路の南側、西洞院大路~油小路)が正式な内裏として扱われ、正元元(1259)年に放火によって焼失するまで使用された。[9]
閑院内裏では、周囲の三町四方が「陣中(じんちゅう)」と呼ばれる特別な区画とされ、二条大路では北側は町小路~堀川小路の西、南側は油小路~堀川小路の西に「裏築地(うらついじ)」と呼ばれる目隠し用の塀が設けられて、町小路~堀川小路の西の二条大路路面中央部には「置路(おきみち)」と呼ばれる貴人専用の通路が設けられた。[9]

暦仁元(1238)年、鎌倉幕府が京に篝屋(かがりや/警護のために設けられた武士の詰所)を設置した[10]際、この大路には東京極大路との交差点[11]と大宮大路との交差点[12]に篝屋が設置された。
朱雀門は倒壊や焼失を繰り返し、その都度再建され、鎌倉時代の仁治三(1242)年にもその存在が確認できる[13]が、13世紀後半~14世紀初頭に門の建物が消滅したようである。[9]
朱雀門についてはこちら→

『東寺執行日記』元徳二(1330)年六月十一日条によれば、同年、後醍醐天皇は飢饉に際して米の価格を抑えるために二条町(町小路との交差点)に50余間の仮屋を建て、米を売買させたという。
『太平記』によれば、元弘の乱において足利高氏らが六波羅探題(ろくはらたんだい/鎌倉幕府の出先機関)を攻め落とす際や南北朝時代の争乱では、この大路がしばしば戦場や軍勢の通路となった。

元弘三(1333)年、後醍醐天皇が二条富小路内裏に入り、そこが建武の新政の中心政庁となった。[14]
二条富小路内裏は富小路との交差点の北東角、建武新政権期の足利尊氏(後醍醐天皇の名「尊治」から一字を賜って改名)の邸宅も万里小路との交差点の南西角にあったと推定されているが、双方とも建武三(1336)年に戦火によって焼失したとみられている。[14][15]
足利尊氏邸の南側には等持院(とうじいん/仁和寺・龍安寺の近くにある寺院とは別)という仏堂が設けられ、後に「等持寺(とうじじ)」という寺院に改められたが、等持寺は尊氏邸の旧地を取り込んで北側を二条大路に面していたと推定されている。[16][17]

南北朝時代~室町時代に、この大路を境にして、内裏や幕府などの政治的中心が置かれて富裕層が集まる「上京」と四条大路を中心とした民衆が集う商業地域「下京」に分けられるようになった。[18]

元中八/明徳二(1391)年の明徳の乱(室町時代の守護大名である山名氏が室町幕府に対して起こした反乱)では、大宮大路との交差点付近が戦場となった。[19]
応永三十二(1425)年の『酒屋交名』によれば、富小路から朱雀大路にかけて10軒の酒屋があったようである。[20]

『建内記』嘉吉元(1441)年六月二十四日条によれば、同日に西洞院大路との交差点付近にあった赤松満祐(あかまつみつすけ)の邸宅で、室町幕府第六代将軍の足利義教(あしかがよしのり)が暗殺された(嘉吉の変)。

文正二/応仁元(1467)年~文明九(1477)年の応仁の乱では、応仁元(1467)年六月にこの大路付近で西軍の朝倉孝景(あさくらたかかげ)勢が東軍の武田信賢(たけだのぶかた)勢を撃破したり、[21]、同年九月に西軍の畠山義就(はたけやまよしなり)の陣であった等持寺に武田勢が矢を射掛ける[22]など戦場となり、近隣の兵火による延焼も受けた[23]
文明元(1469)年以降は洛中での戦闘は少なくなるが、文明六(1474)年、和睦交渉が細川政元(ほそかわまさもと/東軍)と山名政豊(やまなまさとよ/西軍)との単独講和という結果に終わると、乱は再燃し、西軍の軍勢がこの大路の堀川小路~大宮大路付近に火を放った。[24]

乱によってこの大路の左京部分は荒廃したが[25]、明応年間(1492~1501)頃までに一応の復興はなされ、この大路は万里小路~町小路が下京惣構(しもぎょうそうがまえ/下京の市街を囲った堀と土塀)の北限に位置したものの、この大路沿いには等持寺、妙覚寺(室町小路との交差点の南西角)、妙顕寺(西洞院大路との交差点の南西角)といった寺院があるのみで、実質的な市街はほぼ姉小路以南であった。[26]
天正十一(1583)年、豊臣秀吉は妙顕寺を寺之内通に移転させて、跡地に自身の城館(妙顕寺城)を築き、天正十三(1585)年に完成したという。[27][28]
妙顕寺城は周囲に堀をめぐらし、天守もあったようであり、北を二条通、南を御池通、東を西洞院通、西を油小路通に囲まれた範囲を占めていたと推定されているが、天正十五(1587)年の聚楽第(じゅらくてい)完成に伴って廃城となった。[27][28]

天正十七(1589)年、柳馬場通との交差点付近に日本最初の公許の遊郭が開かれ、「二条柳町」などと呼ばれた。[29]
これは、荒廃していた二条通周辺の復興策であると考えられている。[29]

天正十八(1590)年、二条通は豊臣秀吉によって再開発された。[25]
また、天正十九(1591)年には、秀吉によって現在の河原町通の西側と西土居通の東側に「御土居」(おどい/京都市街を囲った土塁と堀)が築かれた。[30]
当初はこの通りには出入り口は設けられたなかったと考えられるが、元禄十五(1702)年に描かれた『京都惣曲輪御土居絵図』によれば、江戸時代に入ってから二条通と右京部分にあたる現在の上押小路通にそれぞれ御土居の出入り口が開かれたようである。

慶長八(1603)年の二条城築城[31]によって、堀川通以西の通りが消滅したが、二条通は大手筋(城の大手門に通じる道路)としての性格を持つようになり[32]、遊郭は六条に移された[33]

江戸時代の二条通は、東は二条河原から寺町通を経て西は堀川通までで、絵草紙・謠の本・木地屋・ぬり物類・飾り屋・書物屋・キセル・印籠・筆屋・碁将棋盤・薬種屋など多くの商家が軒を連ねた。[34]
俳諧書『毛吹草』には、この通りの名産として薬種・洗鮫(あらいざめ)・秤・キセル・釜鐶鏁(かまかんくさり)・金義鑷(かねよしはさみ)・佐伯抦巻(つかまき)・碁双六盤(ごすごろくばん)・茶入袋・紗織物が挙げられている。[35]
二条堀川土橋(現在の二条橋)は山城国の各村や京都周辺の寺社などへの里程の起点として用いられた。[36]

宝永五(1708)年、鴨川東岸へ道が延び[25]、東は永観堂辺りまで達していた[37]ようであるが、承応三(1654)年に描かれた『新板平安城東西南北町并洛外圖』を見ると、それ以前から鴨川に簡素な橋が架けられていたようである。
享保七(1722)年、二条組薬種仲間が江戸幕府に公認され、二条通は幕府公認の薬種街となり、薬問屋が同業者町を形成していたという。[38]

二条城の西側、現在の美福通から千本通の一筋東に至る通り(平安京の二条大路にあたる)は、「城西通」と呼ばれていたという。[25]

明治二(1869)年、上京・下京の境が三条通に変更された。[39]

現在の二条通は、幅約51mの大路の面影はなく、寺町通以西は一方通行の狭い通りである。
間之町通~室町通には現在も薬屋が多く、両替町通との交差点の西には、幕末にこの通り沿いの薬問屋が創始した薬祖神祠がある。

千本通以西には「旧二条通」、御前通以西には「新二条通」があるが、右京部分の二条大路にあたる通りは「上押小路通(かみのおしこうじどおり)」と呼ばれる。
また、JR・地下鉄二条駅の中心線は御池通であり、千本通以西では「二条」と呼ばれる地域や通りが平安京の二条大路からずれている。

◆ 平成十(1998)年度の二条大路の発掘調査[40]では、幅約2.4m(『延喜式』京程条記載の隍幅8尺に相当)の大内裏南隍が検出されている。
また、同調査では17世紀以降、かつて二条大路だった場所にゴミ穴、井戸などが盛んに形成され、二条城築城後は道路としての機能を失い、官庁街、武家屋敷に変化したことが判明している。
◆ 平成七(1995)年度の右京二条二坊五町の発掘調査[5]では、西靱負小路との交差点を西へ入った地点で二条大路の北側溝が検出され、北側溝が平安京条坊プランどおりに掘削された後、調査地点では10世紀代に少なくとも3回以上南に移動しながら掘り変えられたことが判明した。
また、10世紀初期以降は条坊基準が守られなくなったようで、側溝を埋め立てて私有地化(巷所化)した形跡がみられた。


[1] 『延喜式』(『延喜式第7』、日本古典全集刊行会、1929年、32頁)

[2] 古代学協会・古代学研究所編『平安京提要』 角川書店、1994年、150・180頁

[3] 森谷尅久監修『京都の大路小路 ビジュアルワイド』 小学館、2003年、138頁

[4] 山本雅和「平安京左京二条二坊」『平成元年度京都市埋蔵文化財調査概要』(財)京都市埋蔵文化財研究所 1994年

[5] 東洋一・網伸也・真喜志悦子「平安京右京二条二坊」『平成7年度京都市埋蔵文化財調査概要』(財)京都市埋蔵文化財研究所 1997年

[6] 『拾芥抄』所収「西京図」

[7] 山田邦和『京都の中世史7 変貌する中世都市京都』 吉川弘文館、2023年、30~31頁

[8] 山田(邦)、同上、63~67頁

[9] 山田(邦)、同上、98~101頁

[10] 野口実・長村祥知・坂口太郎『京都の中世史3 公武政権の競合と協調』 吉川弘文館、2022年、137~139頁

[11] 塚本とも子「鎌倉時代篝屋制度の研究」『ヒストリア』第76号、1977年

[12] 下沢敦「『太平記』の記述に見る京都篝屋」『共栄学園短期大学研究紀要』第18号、2002年

[13] 『平戸記』仁治三(1242)年十一月十三日条

[14] 山田徹『京都の中世史4 南北朝内乱と京都』 吉川弘文館、2021年、52・126~128頁

[15] ただし、尊氏は晩年に建武新政権期と同じ場所に邸宅を再建したとみられ、正平十三/延文三(1358)年にこの邸宅で死去している。 山田(邦)、前掲書、163頁

[16] 早島大祐・吉田賢司・大田壮一郎・松永和浩『京都の中世史5 首都京都と室町幕府』 吉川弘文館、2022年、82~87頁

[17] 「2 室町期の京都 山田邦和作成」 早島ほか、前掲書

[18] 京都市編『史料京都の歴史』第7巻(上京区) 平凡社、1980年、3頁

[19] 山田(徹)、前掲書、245~247頁

[20] 『酒屋交名』(『北野天満宮史料 古文書』 北野天満宮、1978年、34~46頁)

[21] 『経覚私要鈔』応仁元(1467)年六月十五日条

[22] 『経覚私要鈔』応仁元(1467)年九月十日条

[23] 『経覚私要鈔』応仁元(1467)年七月十二日条ほか

[24] 京都市編『京都の歴史3』 学芸書林、1968年、348頁

[25] 『京都坊目誌』(『新修京都叢書』第17巻、臨川書店、1976年、289頁)

[26] 高橋康夫『京都中世都市史研究』 思文閣出版、1983年、「第30図 戦国期京都都市図」

[27] 尾下成敏・馬部隆弘・谷徹也『京都の中世史6 戦国乱世の都』 吉川弘文館、2021年、186頁

[28] 山田(邦)、前掲書、235頁

[29] 「角川日本地名大辞典」編纂委員会編『角川日本地名大辞典 DVD-ROM』 角川学芸出版、2011年

[30] 尾下ほか、前掲書、186頁

[31] 京都市編『史料京都の歴史』第9巻(中京区) 平凡社、1985年、264頁

[32] 『日本歴史地名大系 27(京都市の地名)』 平凡社、1979年、691頁

[33] 京都市編『史料京都の歴史』第12巻(下京区) 平凡社、1981年、299~300頁

[34] 『京羽二重』(『新修京都叢書』第2巻、臨川書店、1969年、22頁)

[35] 京都市編『史料京都の歴史』第4巻(市街・生業) 平凡社、1981年、438~440頁

[36] 『京都御役所向大概覚書』上巻 清文堂出版、1973年、249~260頁

[37] 『京町鑑』(『新修京都叢書』第3巻、臨川書店、1969年、264頁)

[38] 森谷尅久監修『京都の大路小路 ビジュアルワイド』 小学館、2003年、141頁

[39] 上京区一二〇周年記念事業委員会編『上京区一二〇周年記念誌』 2000年、182頁

[40] 福島孝行・引原茂治「平安京跡二条大路発掘調査概要」『京都府遺跡調査概報』第91冊(財)京都府埋蔵文化財調査研究センター 2000年