平安時代、この大路に面して平安京の官設市場であった東市(ひがしのいち/猪隈小路との交差点付近)・西市(にしのいち/西靱負小路との交差点付近)があり[2]、平安京造営当初から商工業の中心として栄えた。
猪隈小路との交差点には東市の市門があり[3]、承平年間(931~938)には市門の東側に空也(くうや)が市堂を建立した。[2][4]
この大路沿いには、亭子院(ていじのいん/宇多天皇の譲位後の御所、西洞院大路との交差点の北西角)や朱雀大路をはさんで両側に東西の鴻臚館(こうろかん/外国使節の宿舎)などがあった。[2]

東鴻臚館は承和六(839)年に廃止されて典薬寮(宮内省に属し、医薬などをつかさどった役所)の御薬園となり[5]、西鴻臚館は南北二町だった敷地が平安時代後期に一町(北小路以北)に縮小はしたものの、鎌倉時代まで存続した。[2]

『貞観儀式』によれば、大嘗会(だいじょうえ/天皇の皇位継承に伴って行われる儀礼、大嘗祭[だいじょうさい])では、神供物や祭器具等を携えた悠紀(ゆき)・主基(すき)両国[6]の行列は大内裏の北方(北野)の斎場を出発して大内裏の朝堂院に設けられた大嘗宮に向かうが、その経路は以下のとおりである。[7]
悠紀国の行列は大宮大路を、主基国の行列は西大宮大路をそれぞれ南下し、七条大路に至って悠紀国の行列は西行、主基国の行列は東行する。[7]
両国の行列は七条朱雀(朱雀大路との交差点)で合流し、七条朱雀を出発点として、悠紀・主基両国合わせて五千人に及ぶ行列が並んで朱雀大路を北上した。[7]

この大路の左京部分は、稲荷社(伏見稲荷大社)の稲荷祭で稲荷社から御旅所[8]へ渡る神輿の巡行路となり、祭の日は見物する人々で大いに賑わった。[9]
稲荷祭の見物場所として、東市付近に「市町桟敷」という桟敷が設けられていたという。[10]
『春記』長久元(1040)年四月九日条によれば、稲荷祭の夜には堀川小路との交差点に仮屋が設けられ、様々な芸能が催されたという。
また、『帥記』永保元(1081)年四月十五日条によれば、七条町(町小路との交差点)の南東には稲荷祭の見物場所としての桟敷があったが、七条大路を隔てた北側には家がなく荒畠の状態であったため、祭礼見物に来た人たちが牛をつないだという。

右京部分も松尾社(松尾大社)の松尾祭で松尾社から御旅所(西大宮大路との交差点付近)[11]へ渡る神輿の巡行路となった。[12]
『山槐記』永暦ニ(1161)年八月二十五日条によれば、同日の大原野行幸(ぎょうこう/天皇の外出)にこの大路の右京部分が使用されたようである。

商工業の中心であった東西市は、律令制の崩壊も相まって衰退していき、西市は9世紀中頃の段階で既に衰退の兆候を見せていたようである[13]。 東市も平安時代末期にはかなり寂れていたとみられる[3]が、『三長記』建久六(1195)年十月七日条には東市で餅を買った旨の記述があり、鎌倉時代初期にも機能は果たしていたようである。
『百錬抄』建仁元(1201)年九月二十九日条によれば、同日に市屋庁と近辺の小屋などが焼亡したといい、これによって東市は完全に機能を停止したのではないかと考えられる。

平安時代中期頃から、東市で販売していた武具・馬具などの金属製品の生産者が七条町周辺に集住し、私的に品物を売るようになったようである。[14]
平安時代後期以降は、衰退した東西市に代わって七条町が商工業の中心となった。[15]
七条町には鍛冶・鋳物師(いもじ)・銀金の細工・薄打(はくうち)・経師・銅細工などの商工業者や借上(かしあげ)などの金融業者が多数集まり、大いに繁栄したようである。[14]
『明月記』天福二(1234)年八月五日条には、七条町を中心とした地域の焼亡の記事があるが、この地域が日本の財宝を集めたかのような繁栄ぶりであったことが記されている。

この大路沿いには京仏師と南都(奈良)仏師のそれぞれの仏所(ぶっしょ/仏像の工房)が設けられたが、七条町界隈に金属工が多く、仏像の飾り金具の入手がしやすかったからではないかと推定されている[14]
平安時代後期には、京仏師の院派(いんぱ/平安時代後期の仏師・定朝[じょうちょう]の門弟たちの一派)によって七条大宮仏所(大宮大路との交差点付近)が開かれた。[14][16]
次いで鎌倉時代初期には、南都仏師の慶派(けいは/定朝系で奈良の興福寺を拠点とした一派)によって七条仏所(東洞院大路との交差点の南西角)が開かれ[9][14]、鎌倉時代の運慶(うんけい)・快慶(かいけい)・湛慶(たんけい)など優れた仏師を輩出した。

この大路の右京部分は、平安時代中期以降も山陰道へとつながるルートとして重要視された。[17]
衰退した西市周辺は、平安時代後期以降「西七条」と呼ばれるようになり[18]、衰退していく右京の中で都市的空間を形成したようである。
発掘調査(一部は後述)[19][20][21][22]によっても、右京が衰退したとされる平安時代中期以降も活発に土地利用が行われ、特に鎌倉・室町時代以降は頻繁に建物が建て替えられており、西市衰亡後も連綿と人々の営みが続いたことが明らかになった。
また、概ね平安時代~中世(場所によっては現代まで)の七条大路路面と南側溝が検出されている。

平安時代末期には、この大路の延長部分(七条大路末)、鴨川の東側に後白河上皇の御所「法住寺殿(ほうじゅうじどの)」が造営された。[14]
『重方記』永暦二(1161)年四月十三日条によれば、鴨川に浮橋が架かっていたことが分かり、七条大路と延長部分は橋を介して頻繁に行き来されていたようである。
平安時代に三条橋が架かっていた記録は確認されていない[23]ため、浮橋という仮橋ではあるものの、現存する文献上では七条橋は三条橋より古い歴史を持つ橋といえる。
『中古京師内外地図』に描かれた七条橋には「七条石橋」と記載されており、石橋が架けられていた時期もあったのかもしれない。

『玉葉』治承二(1178)年三月二十四日条によれば、同日に高倉小路との交差点の西から出火し、この大路沿いに朱雀大路までが延焼した。
これを「治承の大火」または「次郎焼亡」と呼ぶ。

暦仁元(1238)年、鎌倉幕府が京に篝屋(かがりや/警護のために設けられた武士の詰所)を設置した[24]際、この大路には大宮大路との交差点に篝屋が設置された[25]

弘安七(1284)年、一遍(いっぺん/時宗の宗祖)が市堂を訪ね、時宗布教の拠点として「市屋道場」とした。[9]
『一遍上人絵伝』には、市屋道場での踊念仏の様子が描かれている。
正安三(1301)年には、東洞院大路をはさんで七条仏所の東隣に金光寺(こんこうじ)が創建され、時宗遊行派の拠点として「七条道場」と称された。[9][26]

『太平記』によれば、南北朝時代の争乱ではこの大路がしばしば戦場や軍勢の通路となった。
七条町は、南北朝の争乱で打撃を受けて職人たちの離散を招き、衰退したようである。[16]
南北朝時代の田地に関する文書に「七条面堀河東」「七条西大宮面」[27]「七条大宮」「七条櫛笥」[28]とあり、堀川小路以西には耕作地が点在していたことがうかがえるが、室町時代には室町小路から油小路にかけて6軒の酒屋があった[29]ようである。

文正二/応仁元(1467)年~文明九(1477)年の応仁の乱はこの大路の左京部分を荒廃させ[30]、乱後は下京の市街の外に位置した[31]ため、わずかに道路が通じているのみとなったが、天正十八(1590)年に豊臣秀吉によって再開発された。[30]

天正十九(1591)年、豊臣秀吉によって高倉通の西側と千本通の東側に「御土居」(おどい/京都市街を囲った土塁と堀)が築かれ[32]、千本通の東側には当初から御土居の出入り口が設けられた可能性が高いと推定されている。
元禄十五(1702)年に描かれた『京都惣曲輪御土居絵図』によれば、高倉通の西側にも江戸時代に入ってから御土居の出入り口が開かれたようであるが、寛永十八(1641)年以降、枳穀邸(きこくてい/現在の渉成園[しょうせいえん])の建設や周辺整備に伴って御土居は東に移設され、出入り口も移設された。[33]

江戸時代の七条通は、東は鴨川の東、智積院の門前から西は大宮通の西まで材木屋・薪屋・藁屋などの商家があり、丹波口より西は丹波街道となっていた。[34][35]
承応三(1654)年に描かれた『新板平安城東西南北町并洛外圖』を見ると、江戸時代には鴨川に簡素な橋が架けられていたようであり、『都名所図会』「七条河原松明殿」の挿絵を見ると、欄干のない橋だったことが分かる。
現在の河原町七条交差点の西側には、「内浜」と呼ばれる高瀬川河岸では最大規模の舟入が築かれ、木材や米の集散地となった。[36][37]

大宮通の西で人家は途切れて田畑が広がっていたが、千本通との交差点付近に「朱雀(しゅしゃか)村」の集落があり、さらに一町先にも「西七条村」の集落があった。[35]
『都名所図会』「為義塚」の挿絵から、朱雀村には千本通との交差点を中心に集落が形成されていたことが分かり、江戸時代の地誌『山城名跡巡行志』によれば旅籠、茶店、煮売などが多かった[38]ようで、宿場町のような様相を呈していたのかもしれない。

七条通のおおよそ木辻大路(跡)以西は「川勝寺村(せんしょうじむら)」という洛外農村となった。
川勝寺村の村名は秦河勝(はたのかわかつ/飛鳥時代の官人)が創建したとされる川勝寺(蜂岡寺)に由来し、現在の葛野大路通との交差点を上がったところにある福元院が川勝寺の旧跡地であるという。[39]

江戸時代の稲荷祭では、三月の神幸祭で七条通の伏見海道(現在の本町通/奈良街道)→醒井通が神輿の巡行路となった。[40]
先述の『都名所図会』「七条河原松明殿」の挿絵には、七条橋を渡る神幸祭の行列の様子が描かれている。

明治二十八(1895)年、京都電気鉄道(後に京都市電)木屋町線が開業し、七条東洞院~七条河原町に電車が走った。
明治四十四(1911)年に始まる道路拡築事業により、七条通の東大路通~大宮通が拡幅され[41]、京都市電七条線が大正元(1912)年の七条烏丸~七条大宮の開業を皮切りに順次開業し、昭和九(1934)年には東山七条~西大路七条の全線が開業した。

七条道場金光寺は、明治四十一(1908)年に東山区の長楽寺(ちょうらくじ)に合併された。[26]
大正元(1912)年の市電の軌道敷設に伴い、内浜は埋め立てられたようである。[36]
市電は木屋町線と七条線とでは軌間(線路の幅)が異なるため、大正時代は七条河原町~七条東洞院が三線軌となっていたが、木屋町線は昭和二(1927)年に廃止された。

大正十(1921)年から15年近くにわたって行われた京都都市計画道路新設拡築事業では、七条通の大宮通~西大路通が京都市区改正街路1号線として拡幅された。[41]
七条線は京都市電の中では晩年まで生き残ったが、昭和五十二(1977)年から昭和五十三(1978)年にかけて全線廃止となった。

七条通は幹線道路として重要な役割を果たしており、河原町通~烏丸通は国道24号と重なっている。
五条通が拡幅される前は、七条通が国道9号であった。
東西の本願寺付近では仏具店が多い。

伏見稲荷大社(稲荷社)と松尾大社(松尾社)の御旅所は、それぞれ移転や集約[42][43]がなされたものの、現在も稲荷祭と松尾祭では七条通が神輿の巡行路となっている。

◆平成二(1991)年度及び平成二十二(2010)年度の左京八条三坊[44][45][46]の発掘調査では、概ね平安時代~室町時代(場所によっては江戸時代まで)の七条大路路面と南側溝が検出された。
室町小路との交差点を東へ入った地点では、七条大路は江戸時代前期まで平安時代の道幅を狭めることなく維持・整備され、江戸時代中期に現在の道幅に狭められたことが判明し、烏丸小路の東西では平安京造営当初から七条大路が構築されたことが明らかになった。

◆昭和五十二(1977)年度の右京七条一・二坊の調査[47]では、西堀川大路との交差点の北東(西市推定地)で平安時代前期の炉跡が検出され、周辺からは鉱滓が付着した土師器甕・杯・皿などが出土し、金属生産の跡と考えられている。

◆平成元(1989)年度の右京八条二坊の調査[19]では、西大宮大路との交差点を西に入った地点で、平安時代前期には七条大路南半部に大規模な水路があり、平安時代中期以降も路面は宅地内より低く、出水時には路面自体が水路となって路面端の幅2mほどの部分のみが路面として機能していたようである。


[1] 『拾芥抄』所収「西京図」

[2] 古代学協会・古代学研究所編『平安京提要』 角川書店、1994年、181・183・283~301・347~348・359~372頁

[3] 『拾遺抄註』(『羣書類従』第16輯(和歌部)、続群書類従完成会、1960年、252頁)

[4] 『山州名跡志』(『新修京都叢書』第16巻、臨川書店、1969年、250頁)

[5] 『続日本後紀』承和六(839)年八月十二日条

[6] 悠紀・主基両国は律令国の中から卜定(占いによって定めること)されるが、醍醐天皇の大嘗祭以降、悠紀は近江国、主基は播磨・丹波・備中国に固定され、三条天皇の大嘗祭以降は主基も丹波国に固定された。 新田均「大嘗祭の歴史」『大嘗祭の思想と歴史』 日本文化研究所、1990年、144頁

[7] 『貞観儀式』巻第二・第三(荷田在満校訂『貞観儀式(続日本古典全集)』、現代思潮社、1980年、115~257頁)

[8] 御旅所は八条坊門猪隈(八条坊門小路と猪隈小路との交差点)に設けられ、後に七条油小路(油小路との交差点)にも設けられた。 京都市編『史料京都の歴史』第12巻(下京区) 平凡社、1981年、491~492頁

[9] 「角川日本地名大辞典」編纂委員会編『角川日本地名大辞典 DVD-ROM』 角川学芸出版、2011年

[10] 『本朝世紀』康和五(1103)年四月十九日条

[11] 『山槐記』仁安二(1167)年四月五日条

[12] 古代学協会ほか編、前掲書、80頁

[13] 『続日本後紀』承和九(842)年十月二十日条

[14] 野口実・長村祥知・坂口太郎『京都の中世史3 公武政権の競合と協調』 吉川弘文館、2022年、245~255頁

[15] 京都市編『史料京都の歴史』第12巻(下京区) 平凡社、1981年、430頁

[16] 村木二郎「中世京都七条町・八条院町界隈における生産活動 銅細工を中心に」『国立歴史民俗博物館研究報告』第210集、国立歴史民俗博物館、2018年

[17] 山田邦和『京都の中世史7 変貌する中世都市京都』 吉川弘文館、2023年、30~31頁

[18] 『時範記』承徳三(1099)年二月九日条

[19] 辻裕司「平安京右京八条ニ坊」『平成元年度京都市埋蔵文化財調査概要』(財)京都市埋蔵文化財研究所 1994年

[20] 「平安京右京八条二坊一町」『昭和53年度京都市埋蔵文化財調査概要』(財 )京都市埋蔵文化財研究所 2011年

[21] 前田義明「右京八条二坊(1)」『昭和56年度京都市埋蔵文化財調査概要(発掘調査編)』(財)京都市埋蔵文化財研究所 1983年

[22] 吉崎伸「右京八条二坊(2)」『昭和56年度京都市埋蔵文化財調査概要(発掘調査編)』(財)京都市埋蔵文化財研究所 1983年

[23] 田端泰子「橋と寺社・関所の修造事業」(門脇禎二・朝尾直弘共編『京の鴨川と橋 その歴史と生活』 思文閣出版、2001年、77頁)

[24] 野口ほか、同上、137~139頁

[25] 塚本とも子「鎌倉時代篝屋制度の研究」『ヒストリア』第76号、1977年

[26] 『日本歴史地名大系 27(京都市の地名)』 平凡社、1979年、952頁

[27] 『東寺百合文書』ヱ函/92/8/

[28] 『東寺百合文書』ウ函/64/

[29] 『酒屋交名』(『北野天満宮史料 古文書』 北野天満宮、1978年、34~46頁)

[30] 『京都坊目誌』(『新修京都叢書』第17巻、臨川書店、1976年、306頁)

[31] 高橋康夫『京都中世都市史研究』 思文閣出版、1983年、「第30図 戦国期京都都市図」

[32] 尾下成敏・馬部隆弘・谷徹也『京都の中世史6 戦国乱世の都』 吉川弘文館、2021年、186頁

[33] 中村武生『御土居堀ものがたり』 京都新聞出版センター、2005年、71・262~264頁

[34] 『京羽二重』(『新修京都叢書』第2巻、臨川書店、1969年、25頁)

[35] 『京町鑑』(『新修京都叢書』第3巻、臨川書店、1969年、292~293頁)

[36] 佐和隆研ほか編『京都大事典』 淡交社、1984年、87頁

[37] 森谷尅久監修『京都の大路小路 ビジュアルワイド』 小学館、2003年、192頁

[38] 『山城名跡巡行志』(『新修京都叢書』第22巻、臨川書店、1976年、415頁)

[39] 京都市編『史料京都の歴史』第14巻(右京区) 平凡社、1994年、58頁

[40] 『京都御役所向大概覚書』下巻 清文堂出版、1973年、22頁

[41] 建設局小史編さん委員会編『建設行政のあゆみ 京都市建設局小史』 京都市建設局、1983年、25~28頁

[42] 八条坊門猪隈(八条坊門小路と猪隈小路との交差点)と七条油小路(油小路との交差点)にあった伏見稲荷大社(稲荷社)の御旅所は、天正十六(1588)年に唐橋通(東寺道)と油小路との交差点の北西角(現在地)に集約された。 京都市編、前掲書(下京区)、491~492頁

[43] 西七条に3箇所あった松尾大社(松尾社)の御旅所は、明治時代に御前通との交差点を下がった場所(現在地)に集約された。 京都市編、前掲書(下京区)、572~573頁

[44] 平尾政幸「平安京左京八条三坊1」『平成2年度京都市埋蔵文化財調査概要』(財)京都市埋蔵文化財研究所 1994年

[45] 木下保明「平安京左京八条三坊2」『平成2年度京都市埋蔵文化財調査概要』(財)京都市埋蔵文化財研究所 1994年

[46] (財)京都市埋蔵文化財研究所『平安京左京八条三坊九町跡』京都市埋蔵文化財研究所発掘調査概報2010-6 2010年

[47] 「平安京右京七条一・二坊、西市跡」『昭和52年度京都市埋蔵文化財調査概要(発掘調査編)』(財)京都市埋蔵文化財研究所 2011年