五条大路と六条大路の中間に位置する小路。
朱雀大路との交差点の左京側・右京側には、それぞれ1箇所ずつ「坊門」[1]が設けられた。

『三代実録』貞観元(860)年十二月二十五日条には、この小路の延長部分(六条坊門小路末)で伊勢の斎宮の恬子内親王(てんし/やすこないしんのう)が禊(みそぎ)をした旨の記述があり、平安時代前期から東京極大路を越えて鴨川西岸まで道が延びていたものと思われる。
恬子内親王は在原業平との恋愛譚でも知られる人物である。

平安時代、この小路(左京部分)沿いには源融(みなもとのとおる/嵯峨天皇の皇子)の河原院(かわらのいん/万里小路との交差点の南東角)をはじめとする公家の邸宅などがあった。[2]
『池亭記』の作者として知られる慶滋保胤(よししげのやすたね)は、室町小路との交差点の南西角の土地を購入して池亭(ちてい)を建て、念仏三昧の生活を送った。[2]
池と築山を造り、池の北に寝殿、西に阿弥陀堂、東に書庫を配置した池亭の様子が『池亭記』で詳述されている。

平安時代後期には、室町小路との交差点の南東角に小六条殿(ころくじょうどの/小六条院)という邸宅が造営され、たびたび里内裏(大内裏ではなく京内に置かれた内裏)として利用された。[2]
平成二(1990)年度及び平成十(1998)年度の左京六条三坊の発掘調査[3][4]では、平安時代後期(11世紀後半)に小六条殿の敷地が北に拡張された結果、六条坊門小路が約36m北に移設されたことが判明した。
移設された道路は12世紀に北側に拡幅され、路面の幅だけで12mに及んでいたようである。
小六条殿は仁平元(1151)年に焼亡し、移設された道路の南半分は鎌倉時代には宅地に組み込まれ、再び小路規模の街路になったとみられる。

この小路の右京部分は、平安時代中期以降の右京の衰退とともに衰退していったと考えられる。

貞和元(1345)年、日静(にちじょう/南北朝時代の日蓮宗・法華宗の僧)が北は六条坊門小路、南は七条大路、東は堀川小路、西は大宮大路で囲まれた土地を光明天皇(こうみょうてんのう)から賜り、本國寺(ほんこくじ)を創建した。[5]
左京部分は鎌倉時代までは邸宅街であったが、室町時代以降は商業地として発展し[6]、応永三十二(1425)年・応永三十三(1426)年の『酒屋交名』によれば、室町小路から猪隈小路にかけて6軒の酒屋があった[7]という。

文正二/応仁元(1467)年~文明九(1477)年の応仁の乱は、この小路の左京部分を荒廃させ[8]、乱後は下京の市街の外に位置した[9]ため、この小路沿いは田園風景が広がっていたとみられる。

本國寺は、天文五(1536)年に起こった天文法華の乱により焼失したが、天文十六(1547)年に同地に再建された。[5]

天正十八(1590)年、通りの左京部分は豊臣秀吉によって再開発された。[8]
この時に全体的に道路の改修や若干の移設が行われたと考えられ、昭和六十二(1987)年度の左京六条三坊の発掘調査[10]でも、平安時代に敷設された六条坊門小路が修築や再築を繰り返しながら中世を通じて平安時代の位置を踏襲し、安土桃山時代に調査区外へ移動したことが判明している。
また、小六条殿(跡)北側の道路もこの時に元の位置に戻されたと考えられている。

同年、秀吉が方広寺の大仏殿の建立に伴って五条橋をこの通りに移した[11]ため、この通りが「五条橋通」と呼ばれるようになり、正保年間(1644~48)頃に「橋」の字が略されて「五条通」と呼ばれるようになったという[8]
「大仏通」と呼ばれることもあったようである。[12]

慶長七(1602)年、北は五条(六条坊門)通、南は六条通、東は室町通、西は西洞院通で囲まれた地域に二条通と柳馬場通の交差点付近から遊郭が移され、「六条三筋町(ろくじょうみすじまち/六条柳町)」と呼ばれた。[13]
この遊郭は、寛永十八(1641)年に七条通の北方、千本通の東側(いわゆる島原)に移転した。[13]

江戸時代の五条通は、東は五条坂と松原通(清水坂)が合流する地点から寺町通を経て西は醒ヶ井通までで、鴨川の東の諸寺院や大津・伏見への通路として栄え[14]、御影堂扇・鏡屋・絹布屋・人形屋・書物屋・かるた屋・古手屋・木綿屋など様々な商家が軒を連ねた。[15]
堀川以西(当時の西堀川通は松原通の南が南端であった)は本國寺の境内となっており、道路は通じていなかったようである。[16]
俳諧書『毛吹草』には、この通りの名産として御倫(綸)旨紙、扣薄写紙(うちはくうつしがみ)が挙げられている。[17]

五条通は、明治七(1874)年に本圀寺(江戸時代に徳川光圀[とくがわみつくに/水戸黄門]の庇護を受けて改称[18])の境内を貫通し、大宮通まで延長された。[8]
第二次世界大戦中の昭和二十(1945)年には、五条通の東大路通~千本通で通りの南側に面する建物が建物強制疎開(空襲による延焼を防ぐ目的で防火地帯を設けるため、防火地帯にかかる建物を強制的に撤去すること)の対象となって撤去され、扇子製造業など伝統的生業が失われた。[19]

戦後、疎開跡地を利用して道幅約50mに拡幅され[16]、烏丸通以東は国道1号と8号の重複区間、烏丸通~堀川通は国道1号と9号の重複区間、堀川通以西は国道9号となっており、重要な役割を果たしている。
京都市街の東西路で最も広い通りである。
なお、堺町通以東はずれが大きいため、当サイトでは、五条通の堺町通以西を六条坊門小路にあたる通りとして扱った。

本圀寺は昭和四十七(1972)年に山科区へ移転した。[5]

◆ 平成二(1990)年度の調査[3]では、小六条殿(跡)北側の道路の北側で濠が検出され、昭和六十二(1987)年度の調査[10]では、東洞院大路との交差点付近で、小路の南半分を利用した濠が検出された。
双方とも室町時代後期~末期のものとみられ、下京惣構(しもぎょうそうがまえ/下京の市街を囲った堀と土塀)に関連する防御的性格を持つ濠の可能性も考えられる。


[1] 『小右記』治安三(1033)年六月十一日条には、藤原道長が法成寺(ほうじょうじ)の堂礎を坊門から取った旨の記述があり、この時には坊門は機能を失っていたと考えられる。

[2] 古代学協会・古代学研究所編『平安京提要』 角川書店、1994年、269~283頁

[3] 内田好昭・丸川義広「平安京左京六条三坊3」『平成2年度 京都市埋蔵文化財調査概要』(財)京都市埋蔵文化財研究所 1994年

[4] 長戸満男・小檜山一良「平安京左京六条三坊」『平成10年度 京都市埋蔵文化財調査概要』(財)京都市埋蔵文化財研究所 2000年

[5] 上村和直「平安京左京六条二坊五町・猪熊殿・本圀寺跡」『昭和54年度 京都市埋蔵文化財調査概要』(財)京都市埋蔵文化財研究所 2012年

[6] 「角川日本地名大辞典」編纂委員会編『角川日本地名大辞典 DVD-ROM』 角川学芸出版、2011年

[7] 『酒屋交名』(『北野天満宮史料 古文書』 北野天満宮、1978年、34~46頁)

[8] 『京都坊目誌』(『新修京都叢書』第17巻、臨川書店、1976年、301~302頁)

[9] 高橋康夫『京都中世都市史研究』 思文閣出版、1983年、「第30図 戦国期京都都市図」

[10] 上村憲章・小森俊寛「平安京左京六条三坊」『昭和62年度京都市埋蔵文化財調査概要』(財)京都市埋蔵文化財研究所 1991年

[11] 河内将芳『戦国京都の大路小路』 戎光祥出版、2017年、96頁

[12] 『扶桑京華志』(『新修京都叢書』第22巻、臨川書店、1972年、5頁)

[13] 京都市編『史料京都の歴史』第12巻(下京区) 平凡社、1981年、299~300・458~459頁

[14] 『京町鑑』(『新修京都叢書』第3巻、臨川書店、1969年、291~292頁)

[15] 『京羽二重』(『新修京都叢書』第2巻、臨川書店、1969年、24頁)

[16] 『元禄十四年実測大絵図(後補書題 )』

[17] 京都市編『史料京都の歴史』第4巻(市街・生業) 平凡社、1981年、438~440頁

[18] 京都市編『史料京都の歴史』第12巻(下京区) 平凡社、1981年、265頁

[19] 建設局小史編さん委員会編『建設行政のあゆみ 京都市建設局小史』 京都市建設局、1983年、34~41頁及び別添地図その2「建物疎開跡地利用計画図」