朱雀門

すざくもん / しゅじゃくもん / しゅしゃかもん


平安京大内裏の正門。
正面七間、奥行二間(戸は中央五間)[1][2]で東西15丈6尺(約47m)、南北4丈6尺(約14m)の二重閣の門[3]であった。

伴(大伴)氏が建造した[2]ため、当初は大伴門(おおとももん)と呼んだが、弘仁九(818)年に門号を唐風に改めることとなって「朱雀門」に改称されたようである。[4][5]
門の額は空海によって書かれたという。[2]

毎年六月・十二月の大祓(おおはらえ/天下万民の罪や穢れを祓う儀式)[6]や大嘗会(だいじょうえ/天皇の皇位継承に伴って行われる儀礼、大嘗祭[だいじょうさい])に伴う臨時の大祓[7]が行われるなど、朱雀門前は儀礼の場となっていたようである。

『伴大納言絵詞』には、貞観八(886)年に応天門が炎上した際、人々が朱雀門から内裏に殺到する様子が描かれている。
貞観十(868)年には京中の貧しい者を朱雀門前に集めて者を賜る[8]など、朱雀門前や朱雀大路は、賑給(しんごう/困窮者に対して食料や金銭を施すこと)の場所であった。[9]

永祚元(989)年に大風で転倒し[10]、安元三(1177)年には安元の大火で焼亡[11]、承元二(1208)年にも焼亡した[12]が、その都度再建を繰り返したとみられ、承元三(1209)年には「朱雀門上棟」の記事[13]がみえる。
大嘗会では、神供物や祭器具等を携えた悠紀(ゆき)・主基(すき)両国[14]合わせて五千人に及ぶ行列が並んで朱雀大路を北上し[7]、朱雀門前は上皇などの見物場所となっていたようである。[15]
建暦元(1211)年に風雨によって倒壊した[16]ものの、鎌倉時代の仁治三(1242)年にもその存在が確認できる[17]が、13世紀後半~14世紀初頭に門の建物が消滅したようである。[18]
ただし、門の建物の消滅後も基壇は残されており、弘安九(1286)年に春日社(春日大社)への行幸(ぎょうこう/天皇の外出)のための大祓が行われたり[19]、正安三(1301)年の後二条天皇の大嘗会で亀山法皇と後宇多上皇が行列を見物する[20]など、儀礼や行事の場として機能していた。[18]

芥川龍之介の『六の宮の姫君』という作品は、この門を舞台に書かれている。

朱雀門跡には石碑と説明板が建てられているものの、意識しなければ気付かずに通り過ぎてしまうほど目立たない。

[1] 古代学協会・古代学研究所編『平安京提要』 角川書店、1994年、121~122頁

[2] 『拾芥抄』(『故実叢書』第22巻、明治図書出版、1993年、386~389頁)

[3] 『京都坊目誌』(『新修京都叢書』第17巻、臨川書店、1976年、29頁)

[4] 『日本紀略』弘仁九(818)年四月二十七日条

[5] 『年中行事秘抄』には平安時代初期の『弘仁式』を引用して宮城十二門(大内裏の14ある門のうち上東門・上西門を除いた12門)の新旧対照が可能となっている箇所があるが、「朱雀」に対応するのは「大伴」である。 『年中行事秘抄』(『羣書類従』第6輯(律令部・公事部第1)、群書類従刊行会、1952年、560頁)

[6] 『延喜式』(『延喜式第4』、日本古典全集刊行会、1929年、80~81頁)

[7] 『貞観儀式』巻第二・第三(荷田在満校訂『貞観儀式(続日本古典全集)』、現代思潮社、1980年、115~257頁)

[8] 『三代実録』貞観十(868)年十二月七日条

[9] 増渕徹「鴨川と平安京」(門脇禎二・朝尾直弘共編『京の鴨川と橋 その歴史と生活』 思文閣出版、2001年、35~37頁)

[10] 『日本紀略』永祚元(989)年八月十三日条

[11] 『百錬抄』安元三(1177)年四月二十八日条

[12] 『百錬抄』承元二(1208)年九月二十七日条

[13] 『百錬抄』承元三(1209)年七月二十一日条

[14] 悠紀・主基両国は律令国の中から卜定(占いによって定めること)されるが、醍醐天皇の大嘗祭以降、悠紀は近江国、主基は播磨・丹波・備中国に固定され、三条天皇の大嘗祭以降は主基も丹波国に固定された。 新田均「大嘗祭の歴史」『大嘗祭の思想と歴史』 日本文化研究所、1990年、144頁

[15] 『兵範記』仁安三(1168)年十一月二十二日条

[16] 『百錬抄』建暦元(1211)年十月二十二日条

[17] 『平戸記』仁治三(1242)年十一月十三日条

[18] 山田邦和『京都の中世史7 変貌する中世都市京都』 吉川弘文館、2023年、98~101頁

[19] 『続史愚抄』弘安九(1286)年三月二十四日条

[20] 『続史愚抄』正安三(1301)年十一月二十日条