平安時代、この大路沿いには公家の邸宅が点在し、右京でも朱雀院(すざくいん/朱雀大路との交差点の北西角)、淳和院(じゅんないん/道祖大路との交差点の北東角)、西宮(にしのみや/皇嘉門大路との交差点の北西角)などの大規模な邸宅が営まれた。[2]
この大路に沿って、東洞院川が室町小路から西洞院大路まで西流し、西洞院川に注いでいたとされる。[3]

平成二(1990)年度の左京五条四坊の発掘調査[4]及び平成十二(2000)年度の左京四条四坊の発掘調査[5]では、万里小路との交差点を東へ入った地点が平安京造営当初は低湿地や窪地であったが、平安時代中期後半に整地され、宅地として開発されたことが判明した。
調査地点付近では、室町時代に空白期を除いて都市的様相を呈していたようである。

天延二(974)年、祇園会(ぎおんえ/祇園祭)の神輿渡御(みこしとぎょ)[6]が初めて行われ、これ以後、継続して行われるようになったようである。[7]

平安時代中期以降に右京が衰退した後も、この大路の右京部分は松尾へ向かう道路として存続した。[8][9]
永治二(1142)年、祇園社(八坂神社)への参詣路として、勧進聖(かんじんひじり/説法を行って寄付を集める僧侶のこと)によって祇園四条橋が架橋された。[10]

久安六(1150)年には、四条町(町小路との交差点)に「切革坐棚」[11]がみられ、商工業座の初見であるとされている。[9][12]
平安時代後期以降、この大路の左京部分は商工業の中心地として繁栄し、人家が密集していたことから、四条町を中心とする地域で火災が頻発した。[13]

鎌倉時代以降、四条町(町小路との交差点)に商工業座が集中し、刀座・行縢座・腰座・小物座・鎧座・腹巻座・弓矢座・太刀座・刀座・綾座・錦座・馬鞍座・雲母座・水銀座・太刀屋座・袴腰座など、数多くの商工業座があったという。[9]
康永二(1343)年の『不動院仙恵所領紛失状』によれば、四条町の行縢(むかばき/旅や狩りなどの際に足を覆った布や革)座の屋形は柱間が十間の長屋であり、「嶋屋」という屋号もあったようである。[14]

暦仁元(1238)年、鎌倉幕府が京に篝屋(かがりや/警護のために設けられた武士の詰所)を設置した[15]際、この大路には4箇所(東京極大路・烏丸小路・堀川小路・大宮大路との各交差点)に篝屋が設置された[16]

応長元(1311)年、浄阿真観(じょうあしんかん)が東京極大路との交差点の北東角にあった祇陀林寺(ぎだりんじ)を賜って金蓮寺(こんれんじ)と改め、時宗四条派の道場として「四条道場」と呼ばれて繁栄した。[17]
金蓮寺の山号は「錦綾山」であるが、この大路の南北の錦小路と綾小路から一文字ずつを取って付けられている。[18]

『明徳記』によれば、元中八/明徳二(1391)年の明徳の乱(室町時代の守護大名である山名氏が室町幕府に対して起こした反乱)では、山名氏清(やまなうじきよ)軍が四条大宮(大宮大路との交差点)に押し寄せ、二手に分かれて北上したという。

南北朝時代には、祇園会で山鉾巡行が行われるようになった。[19]
貞治三(1364)年頃から、旧暦の六月七日(西暦の7月17日)と旧暦の六月十四日(西暦の7月24日)の両日に山鉾巡行が行われるようになったと推定されており[20]、六月七日には四条大路→東京極大路→五条大路、六月十四日には三条大路→東京極大路→四条大路がそれぞれ山鉾の巡行路となったと考えられている[21]
神輿渡御と山鉾巡行という2つの祭事が祇園会の中心となり、四条大路を中心に展開されたが、応安三(1370)年から康暦二(1380)年までの間は、約10年間にわたって神輿渡御が行われず、山鉾巡行のみが行われたようである。[22]

南北朝時代~室町時代、永徳三(1383)年の後小松天皇、応永二十二(1415)年の称光天皇、永享二(1430)年の後花園天皇の大嘗会(だいじょうえ/天皇の皇位継承に伴って行われる儀礼、大嘗祭[だいじょうさい])では、神供物や祭器具等を携えた悠紀(ゆき)・主基(すき)両国[23]の行列の経路は、悠紀国の行列が大宮大路南下→四条大路西行、主基国の行列が西大宮大路南下→四条大路東行であり、四条朱雀(朱雀大路との交差点)で合流していたようである。[24][25]

この大路は室町時代も商工業街として繁栄し、応永三十二(1425)年・応永三十三(1426)年の『酒屋交名』によれば、東京極大路から堀川小路にかけて20軒の酒屋があったようである。[26]

中世には、この大路の北側、宇多小路~馬代小路に小泉城があった。[27]
築城時期や破却時期は明らかではないが、『上杉本洛中洛外図屏風』にも描かれ、戦国時代の三好氏と松永氏の戦闘でしばしば登場する。

文正二/応仁元(1467)年~文明九(1477)年の応仁の乱はこの大路の左京部分を荒廃させ[28]、祇園会も33年間の中断を余儀なくされた[29]
しかし、右京部分では西大宮大路との交差点付近にあった高西寺[30]周辺に茶屋が10軒以上軒を連ね、賑わっている様子が参詣した公卿を驚かせている[31]

この大路の左京部分は、明応年間(1492~1501)頃までに一応の復興がなされて再び繁華な街路となり、この大路は高倉小路~油小路の西が下京惣構(しもぎょうそうがまえ/下京の市街を囲った堀と土塀)の内側に位置し、概ね東洞院大路~油小路の西は下京の市街を形成した。[32]
祇園会も明応九(1500)年に再興された。[33]

戦国時代の京都の景観を描いたとされる『日吉山王祇園祭礼図屏風』にも、四条大路を進む山鉾巡行の様子が描かれており、この大路に面した板葺き屋根の町家の屋上で山鉾を見物する人々や大路上で山鉾を見物する侍たちの姿がみえる。
また、戦国時代の下京の町々の両端となった各交差点にあったとされる、釘貫(釘抜/くぎぬき)と呼ばれた木戸門の様子も描かれている。
この大路には惣構の東側に「四条口」、西側に「西四条口」という出入り口が設けられていたようである。[34]
四条町は、下京の町組(ちょうぐみ/町衆たちの結成した自治組織)の中心となり、「四条町の辻」「鉾の辻」などと呼ばれた。[35]

天正十八(1590)年、通りの左京部分は豊臣秀吉によって再開発された。[28]

天正十九(1591)年には、祇園社の大政所御旅所(おおまんどころおたびしょ/高辻通と烏丸通との交差点の北東角)と少将井御旅所(しょうしょういおたびしょ/夷川通と東洞院通との交差点の北西角)が統合され、寺町通との交差点の東(現在地)に移転した。[36]
また、同年、秀吉によって現在の河原町通の西側と現在の西土居通付近に「御土居」(おどい/京都市街を囲った土塁と堀)が築かれたが、四条通には出入り口が設けられなかったため、祇園会の神輿渡御では、祇園社から御旅所まで四条通をまっすぐ進むことができなくなり、三条通への迂回を余儀なくされたようである。[37][38]
宛先は不明であるが、祇園社が四条通に御土居の出口を設けるように秀吉への取りなしを依頼した記録が残っている。[39]

慶長六(1601)年には、現在の河原町通の西側に御土居の出入り口が開かれ、以前のように通行できるようになったという。[40]
元禄十五(1702)年に描かれた『京都惣曲輪御土居絵図』によれば、現在の西土居通付近にも江戸時代に入ってから御土居の出入り口が開かれたようである。
現在の西土居通付近の出入り口の様子を描いた絵図を見ると、木戸門が設けられた出入り口であったことが分かる。[41]

祇園会の山鉾巡行路は、江戸時代もそれ以前と大きな変更はなく、六月七日の巡行(江戸時代以降「前祭(さきまつり)」と呼ばれる[42])では、四条東洞院(東洞院通との交差点)を出発点として四条通→寺町通→松原通を巡行し、六月十四日の巡行(江戸時代以降「後祭(あとまつり)」と呼ばれる[42])では、三条東洞院(三条通と東洞院通との交差点)を出発点として三条通→寺町通→四条通を巡行していた。[43]

江戸時代の四条通は、祇園社前から大宮通にかけて、作り花・鼻紙入・衣裝人形・御所文庫・帳屋・鳥屋・竹道具屋・羽箒屋・人形屋・染手拭・楊枝・薬種屋・菓子屋・おしろい屋・紙屋など様々な商家が軒を連ねる繁華街であった。[44]
俳諧書『毛吹草』には、この通りの名産として沼津屏風・藤重中継が挙げられている。[45]
江戸時代に描かれた『京大絵図』や『京都指掌図 文久改正』を見ると、鴨川に架かる四条橋は、三条や五条の橋と比べると簡素な橋だったようである。

大宮通から西へも千本通を越えて道が延び、壬生村(千本通の東側)や西院村(御土居の西側)を通って梅津・桂などへ通じていた。[46]
西院村では、丹波街道(道祖大路にあたる)と並んで中心的道路となり、中の橋通(現在の佐井西通)との交差点は村の中心地で商店が軒を連ねていた。[47]
しかし、壬生村と西院村の間では人家が途切れ、田畑が一面に広がっており、現在の西新道との交差点付近では、明治時代中頃まで夜になると追いはぎが出没したという。[48]

明治四十四(1911)年に始まる道路拡築事業により、四条通の東大路通~大宮通が拡幅された。[49]
大正元(1912)年には、京都市電四条線四条大宮~祇園石段下(後に祇園に改称)が開業し、四条通の大宮通以東に電車が走ったが、昭和四十七(1972)年に全線廃止された。
大正十(1921)年から15年近くにわたって行われた京都都市計画道路新設拡築事業では、四条通の大宮通~西大路通が京都市区改正街路12号線として拡幅され[49]、ほぼ平安時代の道幅を取り戻した。
百貨店や金融機関などが集中して商業の中心となっており、幹線道路としても重要な役割を果たしている。

祇園祭の山鉾巡行は幾度か巡行路の変更がなされたが[50]、四条通はいつの時代も巡行路であり続けている。
かつて鉾の辻と呼ばれた四条新町交差点(かつての四条町)では、山鉾の迫力ある辻回し(交差点での方向転換)を見ることができる。

平成二十六(2014)年~平成二十七(2015)年に実施された四条通歩道拡幅事業では、川端通~寺町通~烏丸通で車道が片側2車線から片側1車線に減らされ、歩道部分が拡幅された。[51]

四条川と西高瀬川

江戸時代には、堀川通以西の四条通に沿って四条川が西流していた。[52]
この川は四条堀川にあった井堰から取水し[52]、二条城の排水を取り込んだ後[53]、壬生村や西院村の用水となっていた[54]
江戸時代の地図を見ると、堀川通から大宮通の西にかけては川をはさんで両側に道路があったようである。[55]

文久三(1863)年以降は四条川が西高瀬川の一部として利用され[52]、慶応四(1868)年の『京町御絵図細見大成』には千本通との交差点の西北に「西高瀬舟入」が記載されている。
西高瀬川は材木・薪炭・米などの物資の輸送ルートとして造られたもので、下嵯峨材木町の桂川の取水口から開削された河道を通って四条川につながり、千本通の西で四条川と別れて北上し、二条城の北側を通って堀川の椹木町冷泉井堰(堀川の椹木町通~夷川通付近にあった堰)に通じていた。[56][57]
また、現在の西新道との交差点付近で南に分流する堀小川と天神川を経由して下鳥羽(鴨川)に通じていた。

明治二(1869)年、京都府の水路改良計画によって西高瀬川は三条通に沿うルートに付け替えられ、四条川を利用する部分は千本通の西~西新道付近のみとなった。[57][58]
西高瀬川の水運は明治三十二年(1899)の京都鉄道(後の国鉄→JR山陰本線[嵯峨野線])の開通によって衰退していったようであり[59]、四条川はその後も残ったが、昭和四十(1965)年頃に暗渠となり[53]、現在では痕跡はほとんど残っていない。

[1] 『拾芥抄』所収「西京図」

[2] 古代学協会・古代学研究所編『平安京提要』 角川書店、1994年、180~181・332~335頁

[3] 『京都坊目誌』(『新修京都叢書』第17巻、臨川書店、1976年、24頁)

[4] 小森俊寛・上村憲章「平安京左京五条四坊」『平成2年度 京都市埋蔵文化財調査概要』(財)京都市埋蔵文化財研究所 1994年

[5] 吉崎伸・南孝雄「平安京左京四条四坊」『平成12年度 京都市埋蔵文化財調査概要』(財)京都市埋蔵文化財研究所 2003年

[6] 旧暦の六月七日、神霊を乗せた3基の神輿が祇園社(八坂神社)から京内の御旅所(おたびしょ/神社を出た神輿を仮に安置する場所)へ渡り、7日間とどまった後、旧暦の六月十四日に御旅所から祇園社へ還る祭事。

[7] 河内将芳『絵画史料が語る祇園祭 戦国期祇園祭礼の様相』 淡交社、2015年、24~28頁

[8] 『民経記』貞永二(1233)年四月十日条

[9] 「角川日本地名大辞典」編纂委員会編『角川日本地名大辞典 DVD-ROM』 角川学芸出版、2011年

[10] 『社家条々記録』(『八坂神社叢書』第1輯、八坂神社社務所、1942年、576頁)

[11] 『平安遺文』2700号

[12] ただし、この文書は写しであるため、信憑性を疑問視する説もある。 京都市編『史料京都の歴史』第4巻(市街・生業) 平凡社、1981年、138~139頁

[13] 京都市編『史料京都の歴史』第12巻(下京区) 平凡社、1981年、109~110頁

[14] 高橋康夫『海の「京都」―日本琉球都市史研究―』 京都大学学術出版会、2015年、22~24頁

[15] 野口実・長村祥知・坂口太郎『京都の中世史3 公武政権の競合と協調』 吉川弘文館、2022年、137~139頁

[16] 塚本とも子「鎌倉時代篝屋制度の研究」『ヒストリア』第76号、1977年

[17] 「角川日本地名大辞典」編纂委員会編『角川日本地名大辞典 26(京都府)』上巻、角川書店、1982年、634~635頁

[18] 『雍州府志』(『続々群書類従』第8、続群書類従完成会、1970年、104頁)

[19] 『師守記』康永四(1345)年六月八日条に「山以下作物(つくりもの)これを渡す」とあるのが山の初見記事、同六月七日条に「定鉾(しずめほこ)例のごとし」とあるのが定鉾の初見記事(ただし、『花園天皇宸記』元亨三(1323)年六月十四日条には「桙(鉾)衆」という後の鉾につながるとされる存在もみられる)とされている。 河内将芳『室町時代の祇園祭』 法藏館、2020年、71~72・75~76頁

[20] 河内、同上、88頁

[21] 河内、同上、98~99・108~110頁

[22] 祇園社は比叡山延暦寺・日吉社(ひえしゃ/現在滋賀県大津市坂本にある日吉大社[ひよしたいしゃ])の末寺・末社であり、日吉社の神輿の造替(ぞうたい/造り替え)をめぐる延暦寺・日吉社と室町幕府との対立により、日吉社の神輿の造替が完了するまで祇園社の神輿渡御は停止に追い込まれた。 河内、同上、84~86頁

[23] 悠紀・主基両国は律令国の中から卜定(占いによって定めること)されるが、醍醐天皇の大嘗祭以降、悠紀は近江国、主基は播磨・丹波・備中国に固定され、三条天皇の大嘗祭以降は主基も丹波国に固定された。 新田均「大嘗祭の歴史」『大嘗祭の思想と歴史』 日本文化研究所、1990年、144頁

[24] 『永享大嘗会記』(『羣書類従』第7輯(公事部[第2](巻第89-111))、群書類従刊行会、1953年、193頁)

[25] 平安時代には悠紀国の行列が大宮大路南下→七条大路西行、主基国の行列が西大宮大路南下→七条大路東行であった。 『貞観儀式』巻第二・第三(荷田在満校訂『貞観儀式(続日本古典全集)』、現代思潮社、1980年、115~257頁)

[26] 『酒屋交名』(『北野天満宮史料 古文書』 北野天満宮、1978年、34~46頁)

[27] 小沢嘉三『西院の歴史』 西院の歴史編集委員会、1983年、142頁 京都大学人文科学研究所山下正男教授(当時)が考証を重ねた結果、当地にあったのは間違いないとのこと。

[28] 『京都坊目誌』(『新修京都叢書』第17巻、臨川書店、1976年、297頁)

[29] 河内、前掲書(室町時代)、220頁

[30] 現在、西大路四条交差点北東角にある高山寺の前身

[31] 『山科家礼記』文明十三(1481)年八月十日条

[32] 高橋康夫『京都中世都市史研究』 思文閣出版、1983年、「第30図 戦国期京都都市図」

[33] 『後慈眼院殿御記』明応九(1500)年六月七日条

[34] 河内将芳『戦国京都の大路小路』 戎光祥出版、2017年、74~78頁

[35] 「角川日本地名大辞典」編纂委員会編『角川日本地名大辞典 26(京都府)』下巻、角川書店、1982年、306頁

[36] 『祇園社記』第二十三(『八坂神社記録 上』 八坂神社社務所、1923年、856~857頁)

[37] 河内将芳氏によれば、秀吉による三条大橋の架橋によって「四条橋とあらたに架けられた三条橋の位置づけが逆転するとともに、四条通と三条通の重要度もまた、逆転」した可能性があるという。 河内、前掲書(戦国京都)、93頁

[38] 中村武生『御土居堀ものがたり』 京都新聞出版センター、2005年、21~23頁

[39] 『祇園社記』第二十三(『八坂神社記録 上』 八坂神社社務所、1923年、855~856頁)

[40] 『祇園社記』第二十三(『八坂神社記録 上』 八坂神社社務所、1923年、868~869頁)

[41] 511「四条切御土居絵図」(谷直樹編『大工頭中井家建築指図集 中井家所蔵本』 思文閣出版、2003年、263頁)

[42] 河内、前掲書(室町時代)、10頁

[43] 『京都御役所向大概覚書』下巻 清文堂出版、1973年、21~22頁

[44] 『京羽二重』(『新修京都叢書』第2巻、臨川書店、1969年、23~24頁)

[45] 京都市編、前掲書(市街・生業)、438~440頁

[46] 『京町鑑』(『新修京都叢書』第3巻、臨川書店、1969年、275~278頁)

[47] 小沢、前掲書、310頁

[48] 小沢、前掲書、299~300頁

[49] 建設局小史編さん委員会編『建設行政のあゆみ 京都市建設局小史』 京都市建設局、1983年、25~28頁

[50] 松田元『祇園祭細見 山鉾篇』 郷土行事の会、1977年、15~16頁

[51] これによって渋滞が発生したことから、平成二十八(2016)年2月に実施された京都市長選挙では、歩道拡幅事業の賛否が争点の1つとなった。

[52] 小沢、前掲書、142~145頁

[53] 松下倫子・藤原剛・川崎雅史・樋口忠彦「江戸期の堀川系における水の共用に関する研究」『土木計画研究発表会・講演集』第36号、(公社)土木学会、2007年

[54] 京都市編『史料京都の歴史』第9巻(中京区) 平凡社、1985年、534頁

[55] 『元禄十四年実測大絵図(後補書題 )』

[56] 京都市編『京都の歴史7(維新の激動)』 学芸書林、1974年、116~119頁

[57] 森谷尅久・山田光二『京の川』 角川書店、1980年、160~162頁

[58] 京都市編、前掲書(中京区)、11~13頁

[59] (財)京都市埋蔵文化財研究所『平安京右京三条一坊四町跡』京都市埋蔵文化財研究所発掘調査概報2004-16 2005年