西大宮大路と道祖大路の中間に位置する小路。
小路中央を西堀川が一条大路から九条大路まで南流していた。[1][2]
この川は、北山から南流する紙屋川を引き入れたものと考えられている。[4]

平安時代、この小路沿いには一条大路から冷泉小路にかけて厨町(くりやまち/役所ごとに京内に設けられていた下級役人などの宿所)、土御門大路との交差点の南東角に隼人司(はやとのつかさ/大内裏の門の警護にあたる隼人の管理をつかさどった役所)があり[5]、中御門大路との交差点の北西角に右獄(うごく)という獄舎、四条大路との交差点の北西角に淳和院(淳和天皇[じゅんなてんのう]の譲位後の御所)があった[6]

北小路との交差点付近に平安京の官設市場であった西市(にしのいち)があった[6]が、西市は9世紀中頃の段階で既に衰退の兆候を見せていたようである[7]

平安時代後期には、三条大路から樋口小路にかけて「小泉荘(こいずみのしょう)」(摂関家の荘園)が形成された。[5]
右獄では、平治元(1159)年に起こった平治の乱における藤原通憲(ふじわらのみちのり/信西)などが獄門にかけられたが、『百錬抄』建久四(1193)年三月二十五日条には、同日に右獄の囚人たちが獄を切り破って逃走したという記事があり、これ以降に衰退・廃絶したとみられ、鎌倉時代後期以降に編纂された『拾芥抄』所収の「西京図」には記載されていない。

南北朝時代の売券(土地の売買の際に売り手が買い手に渡す証文)には「西京唐橋西堀川」とあり[8]、西堀川小路が当該時期に当該地点で街路として機能していたかどうかは不明であるが、土地の位置を示す座標としてはこの頃まで使用されていたようである。

発掘調査[4][9][10](後述)によって、西堀川は平安時代中期から後期にかけて埋没して機能を停止したことが判明した。
場所によっては道路としても機能も失ったようである。
西堀川の機能低下に対応して排水機能を分散させた結果、西堀川の機能停止と前後して右京の南北路(野寺小路・道祖大路など)の河川化が進行していったと考えられている。[11]

冷泉小路との交差点を上がった地点での調査[4]では、西堀川は埋没後も氾濫と土砂の堆積を繰り返したことが判明し、室町時代以降に川筋をいずれかに変更したとみられている。
同時期には周辺は耕作地となり、天正十九(1591)年には、豊臣秀吉によって「御土居」(おどい/京都市街を囲った土塁と堀)が西堀川小路(跡)上に築造され、紙屋川を堀に引き込んで水量を確保したと考えられている。

現在も平安京の西堀川に近い流路をとっている一条通と丸太町通の間の紙屋川は、平安宮の占地する台地の東縁辺部を南流して、河床を深く下刻しており、河道を大きく変えることがなかったとみられている。[4]
この台地は現在の円町交差点(西大路通と丸太町通の交差点)辺りから二条駅の北辺りを結ぶ線を南西辺として、南西方向へ大きく下がる地形となっており、現在の丸太町通以南では、室町時代頃までに当初の河道から西に離れ、河道は南西に移動していたと考えられている。[4]

『雍州府志』によれば、北野の南に宿紙村があり、川で宿紙を作っていたので紙屋川と呼ぶようになった[12]というが、この川の清流を利用して大同年間(806~10)頃に紙屋院(かみやのいん/紙の製造を担った役所)を設けたのが由来であると考えられている。[13]
紙屋院は妙心寺の南東の木辻付近にあったと推定されている[14]が、紙屋院に属する紙師たちは北野社(北野天満宮)付近と現在の円町交差点の東方の紙屋川沿いに集住し、「紙座(かみざ)」を組織したという。[13]

紙屋川は、荒見川・かい川・高陽川(こうやがわ)などとも呼ばれたが、江戸時代までは紙屋川の名が一般的であったようである。[14]
製紙は江戸時代も続けられ、中保町(なかほちょう/現在の中京区西ノ京中保町)や堀川町(ほりかわちょう/現在の上京区堀川町)は江戸時代に宿紙村と呼ばれたという。[15][16]

紙屋川は、昭和十年代の河川改修によって現在の天神川の流路に変更された。[17]
また、西高瀬川と一体化している堀子川は、六条大路(跡)付近から南は平安京の西堀川に近い流路をとっていたが、昭和七(1932)年から始まった土地区画整理事業の一環で現在の流路(佐井西通に沿うルート)に変更された。[18]

先述のとおり、現在も平安京の西堀川に近い流路をとっている一条通と丸太町通の間では、堀川町という地名が西堀川の名残をとどめている。

「西土居通」の名は、この通りが御土居の西側を通ることに由来する。[4]
妙心寺道~三条通の西土居通は昭和時代初期まで「大原街道(おおはらかいどう)」と呼ばれたが、昭和三(1928)年に西土居通に改称されたようである。[19]

◆ 昭和五十五(1980)年度の右京五条二坊五町の発掘調査[9]では、高辻小路との交差点の南で西堀川小路東側溝と小路中央を流れる西堀川が検出された。
調査では西堀川小路の遺構が良好な状態で検出され、西堀川小路の規模が築地(垣)の中心同士を結んだ距離は24m(8丈)であること、川幅は約6m(2丈/『延喜式』記載の半分)に復元できること、西堀川は12世紀前半には埋没し、道路としての機能も失ったことが明らかになった。
道路廃絶後には木棺を伴う土壙墓が路面上に形成されたことが判明した。

◆ 昭和五十六(1981)年度の右京五条二坊・六条二坊の立会調査[20]では、小路中央に幅約15mの西堀川、川の東側には幅約9mの路面が検出されている。

◆ 昭和五十七(1982)年度の右京三条二坊の発掘調査[10]では、三条坊門小路との交差点を北へ上がった地点で西堀川と両側の路面、西側溝が検出されており、川幅は約6m(2丈)で両側に小路が設けられたことが判明している。
西堀川は、出土した遺物から10世紀後半に廃絶したようである。

◆ 平成二十四(2012)年度の右京二条二坊十一町・西堀川小路跡、御土居跡の発掘調査[4]では、冷泉小路との交差点を北へ上がった地点で西堀川と両側の路面、西側溝が検出されている。
調査地点では西堀川は幅5~5.5m、西側路面は幅4~5.5m、西側溝は幅3.3~5.5m、東側路面は幅4.2m以上であったことが判明した。
西堀川は、大雨などの際に上流から運ばれた土砂の堆積によって平安時代中期頃に埋没したとみられており、その後、西側溝が埋没した跡に路面整地がなされたり、西側路面上に井戸が作られた形跡がみられるものの、西堀川が埋没後も氾濫と土砂の堆積を繰り返したことにより、これらの遺構も埋没して壊れたり、侵食を受けるなどしている。
西堀川は、室町時代以降に川筋をいずれかに変更したとみられているが、同時期には西堀川の末期のものといえる南北方向の溝がみられ、周囲の耕作地化に伴う用水路として利用されたと考えられている。
天正十九(1591)年には、豊臣秀吉によって「御土居」(おどい/京都市街を囲った土塁と堀)が西堀川小路(跡)上に築造され、紙屋川を堀に引き込んで水量を確保したと考えられており、調査地点では御土居の堀の幅は14m以上、深さは2.5m、土塁は幅17m以上であったことが判明した。


[1] 『延喜式』(『延喜式第7』、日本古典全集刊行会、1929年、33頁)

[2] 『京都坊目誌』(『新修京都叢書』第17巻、臨川書店、1976年、24頁)

[3] 「九条御領邊図 後慈眼院殿御筆」『九条家文書 三』宮内庁書陵部、1973年

[4] (公財)京都市埋蔵文化財研究所『平安京右京二条二坊十一町・西堀川小路跡、御土居跡』京都市埋蔵文化財研究所発掘調査概報2012-25 2014年

[5] 『拾芥抄』所収「西京図」

[6] 古代学協会・古代学研究所編『平安京提要』 角川書店、1994年、182~183・314・335~336頁

[7] 『続日本後紀』承和九(842)年十月二十日条

[8] 『東寺百合文書』ヱ函/92/4/

[9] 堀内明博「平安京右京五条二坊」『昭和55年度平安京発掘調査報告』(財)京都市埋蔵文化財研究所 1981年

[10] 平尾政幸・辻純一「右京三条二坊」『昭和57年度京都市埋蔵文化財調査概要』(財)京都市埋蔵文化財研究所

[11] 古代交通研究会編『日本古代道路事典』 2004年、434頁

[12] 『雍州府志』(『続々群書類従』第8、続群書類従完成会、1970年、256~257頁)

[13] 森谷尅久・山田光二『京の川』 角川書店、1980年、108~109頁

[14] 『日本歴史地名大系 27(京都市の地名)』 平凡社、1979年、462頁

[15] 高津明恭『平安京西の京厨町物語』 2006年、70~72頁

[16] 『京町鑑』(『新修京都叢書』第3巻、臨川書店、1969年、261頁)

[17] 京都市編『史料京都の歴史』第9巻(中京区) 平凡社、1985年、10~12頁

[18] 京都市編『史料京都の歴史』第14巻(右京区) 平凡社、1994年、16・570頁

[19] 昭和三(1928)年5月24日付け京都市告示第252号

[20] 百瀬正恒「右京五条二坊・六条二坊」『昭和56年度京都市埋蔵文化財調査概要(試掘・立会調査編)』(財)京都市埋蔵文化財研究所 1983年