平安時代、この小路沿いの二条大路から三条大路にかけて厨町(くりやまち/役所ごとに京内に設けられていた下級役人などの宿所)があった。[3]
早くから荘園開発が進み、平安時代前期には六条大路から七条大路にかけて「侍従池領(じじゅういけのりょう)」(仁明天皇[にんみょうてんのう]の皇子の本康親王[もとやすしんのう]が開発した荘園)が形成され、平安時代後期には六角小路から六条大路にかけて「小泉荘(こいずみのしょう)」(摂関家の荘園)が形成された。[3]

平安京造営当初、この小路の東側(北限は土御門大路、南限は近衛大路)に籍田が設けられ、後に「華園(花園)離宮」と呼ばれる離宮となり、12世紀には源有仁(みなもとのありひと)の邸宅「池館」も営まれた。[2]
池館は源平の争乱で焼失したという[2]が、華園(花園)離宮は暦応五/延元三(1342)年に花園上皇が関山慧玄(かんざんえげん/妙心寺の開山[寺を開創した僧])に管領することを命じて[4]禅寺に改められ、妙心寺となった。

一筋西の西京極大路では二条大路以南で道路の遺構が全く検出されていないが、平成十二(2000)年度の右京四条四坊の試掘調査[5]では、四条大路との交差点を上がった地点で平安時代の無差小路の路面と西側溝が検出されている。

この小路も平安時代中期以降の右京の衰退とともに衰退していったと考えられ、発掘調査[6](後述)でも平安時代後期には道路として機能していない場所があったことが判明している。

南部(七条通[丹波街道]を中心とする地域)は、江戸時代には「川勝寺村(せんしょうじむら)」という洛外農村となった。
川勝寺村の村名は秦河勝(はたのかわかつ/飛鳥時代の官人)が創建したとされる川勝寺(蜂岡寺)に由来し、七条通との交差点を上がったところにある福元院が川勝寺の旧跡地であるという。[7]

明治二十七(1894)年の平安京遷都千百年事業で編纂された『平安通志』付図「平安京舊址實測全圖」では、条坊復元線のずれを考慮すると、無差小路が概ね近衛大路~春日小路・三条坊門小路~六条坊門小路で小道や水路として明治時代まで踏襲されていたことが分かる。

葛野大路通は、昭和三十年代から五十年代にかけて、四条通以南が整備された。
平成五(1993)年に太子道~御池通が開通したものの、御池通~四条通は依然として途切れ途切れの細い道であったが、平成十六(2004)年に三条通~四条通が、平成十七(2005)年に御池通~三条通が整備されて太子道まで一本につながり、幹線道路として重要な役割を果たしている。
通り名は、山城国葛野郡であった地を通ることに由来する。

◆ 平成三(1991)年度の右京一条四坊十二町の発掘調査[6]では、中御門大路との交差点を上がった地点の無差小路の路面想定地で平安時代後期の遺物を伴う幅10m以上の水路が検出されており、平安時代後期には道路として機能せず、水路となったようである。
なお、東端ではこの小路の東側溝の痕跡と考えられる遺構が検出されている。

◆ 平成六(1994)年度の右京四条四坊の試掘調査[8]では、平成十二(2000)年度の調査地点の少し北、錦小路との交差点付近で室町時代後半の大規模な濠と、縮小しながら後世にまで続く水路が検出された。
濠は南北方向で、室町時代後半(16世紀)に徐々に東側から西へ埋まり始め、水路に姿を変えていったようである。
東部分は近世に田畑として利用された形跡があり、水路は灌漑用水として利用されたものとみられている。


[1] 『拾芥抄』(『故実叢書』第22巻、明治図書出版、1993年、408頁)

[2] 荻須純道『正法山六祖伝訓註』 思文閣出版、1979年、66頁

[3] 『拾芥抄』所収「西京図」

[4] 「角川日本地名大辞典」編纂委員会編『角川日本地名大辞典 26(京都府)』上巻、角川書店、1982年、1374頁

[5] 伊藤潔「平安京右京四条四坊」『平成12年度京都市埋蔵文化財調査概要』(財)京都市埋蔵文化財研究所 2003年

[6] 平田泰・小檜山一良「平安宮・平安京右京一条三・四坊・二条二・三坊・三条一坊」『平成3年度京都市埋蔵文化財調査概要』(財)京都市埋蔵文化財研究所 1995年

[7] 京都市編『史料京都の歴史』第14巻(右京区) 平凡社、1994年、58頁

[8] 上村憲章「平安京右京四条四坊」『平成6年度京都市埋蔵文化財調査概要』(財)京都市埋蔵文化財研究所 1996年