東洞院大路と西洞院大路の中間に位置する小路。
『蜻蛉日記』に「もろ町」とあるように、古くは「もろまち」と呼んだようである。

「室町」という名称は、小路名としてより日本史の時代区分の1つとしてあまりに有名である。
足利義満(室町幕府第三代将軍)がこの小路の延長部分(室町小路末と京外の北小路[現在の今出川通]との交差点の北、東側)に新邸(花の御所)を築き、そこを居所としたからである。[3][4]

この小路に沿って、室町川(子代川[烏丸川]から連続)が冷泉小路から南流し、四条大路との交差点で向きを変えて西流して西洞院川に合流していたようである。[5]
平安時代、この小路沿いには公家の邸宅や一条大路から中御門大路にかけて厨町(役所ごとに京内に設けられていた下級役人などの宿所)があった。 [6]

発掘調査[7][8](後述)によって、八条・九条域では室町小路が平安時代末期以降に敷設された可能性が高いことが判明している。

平安時代後期以降、この小路は一筋西の町小路の繁栄の余波を受けて発展し、町小路と並んで商工業の中心となった。[9]
平安時代後期~鎌倉時代の火災の記事はこの小路と町小路に集中しており、当時最も人家が密集している地域だったとみられている。[9]

南部では、八条院(鳥羽天皇の皇女)の御所跡(八条大路と東洞院大路との交差点の北西角)[6]を中心に八条院町が成立した。[10]
室町小路ではおおよそ塩小路から八条大路にかけて、銅細工などの金属生産をはじめとする様々な職能を持った人々が集住し[10][11]、七条町(七条大路と町小路の交差点)と並んで中世の商工業の中心地となった。
発掘調査[7][12](後述)でも、室町小路沿いで出土した遺物から八条院町における銅細工師や金屋、塗師の活動の痕跡がうかがえる。

暦仁元(1238)年、鎌倉幕府が京に篝屋(かがりや/警護のために設けられた武士の詰所)を設置した[13]際、この小路には塩小路との交差点に篝屋が設置された[14]
八条院町は、正和二(1313)年に後宇多上皇(ごうだじょうこう)の院宣(上皇の命令を伝達する文書)によって東寺領となった[15][16]ようであるが、南北朝の争乱でこの地は大打撃を受けて職人たちの離散を招き、工房街としての歴史に幕を閉じたようである。[17]

永和四/天授四(1378)年、足利義満は新邸(花の御所)に居を移した。[3][4]

室町時代には、三条大路~楊梅小路が商工業街として殷賑を極めた。[9]
応永三十二(1425)年・応永三十三(1426)年の『酒屋交名』によれば、一条大路から樋口小路にかけて27軒の酒屋があったようである。[18]
『庭訓往来』には、京都名産の1つとして「室町の伯楽」が挙げられている。

文正二/応仁元(1467)年~文明九(1477)年の応仁の乱では、この小路沿いに西軍の主要人物であった斯波義廉(しばよしかど)の邸宅「武衛殿(ぶえいどの/武衛陣)」(中御門大路との交差点の北西角)[19]があったことから、乱の序盤に武衛殿付近が複数回にわたって戦場となり[20]、兵火による延焼も受けた。
乱によってこの小路は四条大路以南が荒廃し[21]、花の御所も文明八(1476)年に焼失した。[22]
乱の最中の文明六(1474)年には、三条大路との交差点付近に米場(米の卸し市場)があったようである。[23]

明応年間(1492~1501)頃までに市街の一応の復興はなされたものの、市街は縮小して上京と下京の2つに分かれ、室町小路だけが2つの市街をつなぐ街路として機能していたようである。[24]
この小路は土御門大路以北が上京惣構(かみぎょうそうがまえ/上京の市街を囲った堀と土塀)の内側に位置し、上京の市街を形成した。[25]
また、二条大路~五条大路が下京惣構(しもぎょうそうがまえ/下京の市街を囲った堀と土塀)の内側に位置し、下京の市街を形成した。[25]

永禄二(1559)年から永禄三(1560)年にかけて、斯波氏の武衛殿(中御門大路との交差点の北東角)を再興して足利義輝(あしかがよしてる/室町幕府第十三代将軍)の邸宅(二条御所)が築かれ、再びこの小路沿いに足利将軍の御所が置かれた。[26][27]
永禄八(1565)年の永禄の変によって義輝は殺害され、二条御所も焼失して付近も戦場となった[28]が、永禄十二(1569)年に織田信長が跡地を拡張して室町幕府第十五代将軍の足利義昭のために邸宅(旧二条城)を造営した。[29]
旧二条城の範囲は北は近衛大路、南は春日小路の北、東は東洞院大路、西は町小路の東と推定されている[30]が、元亀四(1573)年に義昭が信長に追放された後、旧二条城は破却された[29]

三条大路との交差点付近にあった米場は、戦国時代には烏丸小路と三条大路の交差点付近に移転していたようである。[31]
16世紀半ば以降には、上京・下京の両方において室町小路に面する町々が町組(ちょうぐみ/町衆たちの結成した自治組織)の核となった。[9]

天正七(1579)年に信長に対して謀反を起こした荒木村重(あらきむらしげ)の妻子らが引き回された道筋[32]や、天正九(1581)年に本能寺から御馬揃(おんうまぞろえ/御馬汰)の御馬場に向かう信長の道筋[33]にも室町小路が用いられており、上京と下京を結ぶ中心軸の道路であったために選ばれたと考えられている。[24]

慶長七(1602)年、北は五条(六条坊門)通、南は六条通、東は室町通、西は西洞院通で囲まれた地域に二条通と柳馬場通の交差点付近から遊郭が移され、「六条三筋町(ろくじょうみすじまち/六条柳町)」と呼ばれた。[34]
この遊郭は、寛永十八(1641)年に七条通の北方、千本通の東側(いわゆる島原)に移転した。[33]

北は鞍馬口通[1]から一条通を経て南は七条通までであったが、慶長七(1602)年の東本願寺建立に際し、万年寺通(現在の花屋町通)以南の通りが消滅した。[21]
江戸時代には、繊維を中心とした商業地となり、葛籠屋・巻物・呉服屋・上下帷子屋・呉服問屋・烏帽子屋・木綿足袋・砂子屋・駕籠屋などの多くの商家が軒を連ねた。[35]
俳諧書『毛吹草』には、この通りの名産として塗葛籠(ぬりつづら)・香具・目貫・上金剛(うわこんごう)・下緒(さげお)・貝桶(かいおけ)・倚懸縊枕(よりかかりくくりまくら)・筒衛護(つつまもり)・烏帽子・松本洲浜(すはま)・おこしが挙げられている。[36]

現在は繁華街の面影はなく裏通りといった印象の雰囲気であるが、繊維問屋街として著名であり、二条通~五条通に繊維問屋が集中する。

米沢市上杉博物館(山形県米沢市)では、『上杉本洛中洛外図屏風』の登場する人物・建物をもとに動きと音声を付けた映像で、戦国時代の室町小路の様子を臨場感たっぷりに味わうことができる。

◆ 平成六(1994)年度の左京八条三坊の発掘調査[7]では、梅小路との交差点を上がった地点で小礫によって舗装された室町小路が検出された。
調査地点では、平安京造営当初は道路が存在せず路面幅の水路となっており、12世後半に八条院御所が造営された頃、西半分だけを埋め立てて幅約2mの室町小路路面とし、中央部を幅約3mの水路として利用していたことが判明した。
13世紀に水路を埋め立てて再舗装したようであり、東側溝は路面拡張の度に東へ付け替えられていたようである。
また、室町小路に沿った13世紀~14世紀前半の多くの建物群が検出され、大量に出土した鏡の鋳型などの鋳造関係の遺物から八条院町における銅細工師の活発な活動の痕跡がうかがえる。

◆ 平成五(1993)年度の左京八条三坊の発掘調査[12]では、梅小路との交差点の北東で多数の鋳型片や漆が付着した常滑大甕が出土し、八条院町における金屋や塗師の存在を示している。

◆ 平成二十五(2013)年度の左京九条三坊の発掘調査[8]では、針小路との交差点の南東で検出された建物遺構の状況から、調査地点付近は平安時代末期以降急激に居住地域化が進み、鎌倉時代には室町小路に面して町家が建ち並ぶ状況がうかがえるが、室町時代には急速に衰退し、耕作地となったことが判明した。
また、室町小路が平安時代前期には敷設されず、平安時代末期~鎌倉時代初期に西側に規模を縮小して敷設された可能性が高いことが判明した。


[1] 『京町鑑』(『新修京都叢書』第3巻、臨川書店、1969年、199頁)

[2] 『権記』長保二(1000)年十二月十六日条

[3] 山田徹『京都の中世史4 南北朝内乱と京都』 吉川弘文館、2021年、219~220頁

[4] 山田邦和『京都の中世史7 変貌する中世都市京都』 吉川弘文館、2023年、164~165頁

[5] 岸元史明『平安京地誌』 講談社、1974年、164~165頁

[6] 古代学協会・古代学研究所編『平安京提要』 角川書店、1994年、180~181頁

[7] 網伸也・東洋一ほか「平安京左京八坊三坊2」『平成6年度京都市埋蔵文化財調査概要』(財)京都市埋蔵文化財研究所 1996年

[8] (公財)京都市埋蔵文化財研究所『平安京左京九条三坊十町跡・烏丸町遺跡』京都市埋蔵文化財研究所発掘調査概報2013-15 2015年

[9] 「角川日本地名大辞典」編纂委員会編『角川日本地名大辞典 DVD-ROM』 角川学芸出版、2011年

[10] 『東寺百合文書』な函/263/

[11] 『東寺百合文書』へ函/21/

[12] 網伸也「平安京左京八条三坊」『平成5年度京都市埋蔵文化財調査概要』(財)京都市埋蔵文化財研究所 1996年

[13] 野口実・長村祥知・坂口太郎『京都の中世史3 公武政権の競合と協調』 吉川弘文館、2022年、137~139頁

[14] 京都市編『京都の歴史2 中世の明暗』 学芸書林、1971年、424頁

[15] 『東寺百合文書』の函/6/

[16] 『東寺百合文書』ヨ函/104/2/

[17] 村木二郎「中世京都七条町・八条院町界隈における生産活動 銅細工を中心に」『国立歴史民俗博物館研究報告』第210集、国立歴史民俗博物館、2018年

[18] 『酒屋交名』(『北野天満宮史料 古文書』 北野天満宮、1978年、34~46頁)

[19] 山田(邦)、前掲書、211頁

[20] 『後法興院記』応仁元(1467)年六月二十五日条・七月三日条・十六日条・二十四日条・二十六日条

[21] 『京都坊目誌』(『新修京都叢書』第17巻、臨川書店、1976年、232頁)

[22] 『大乗院日記目録』文明八(1476)年十一月十三日条

[23] 『東寺執行日記』文明六(1474)年四月二十三日条

[24] 河内将芳『戦国京都の大路小路』 戎光祥出版、2017年、44~48頁

[25] 高橋康夫『京都中世都市史研究』 思文閣出版、1983年、「第30図 戦国期京都都市図」

[26] 山田(邦)、前掲書、211頁

[27] 尾下成敏・馬部隆弘・谷徹也『京都の中世史6 戦国乱世の都』 吉川弘文館、2021年、94~96頁

[28] 『言継卿記』永禄八(1565)年五月十九日条

[29] 尾下ほか、前掲書、96~97頁

[30] 山田(邦)、前掲書、227頁

[31] 河内、前掲書、58~62頁

[32] 『信長公記』巻十二

[33] 『信長公記』巻十四

[34] 京都市編『史料京都の歴史』第12巻(下京区) 平凡社、1981年、299~300・458~459頁

[35] 『京羽二重』(『新修京都叢書』第2巻、臨川書店、1969年、17頁)

[36] 京都市編『史料京都の歴史』第4巻(市街・生業) 平凡社、1981年、438~440頁