大内裏の陽明門(ようめいもん)・殷富門(いんぷもん)に通じる大路。
陽明門は「近衛御門(このえのみかど)」とも呼ばれ、殷富門は「西近衛御門(にしのこのえのみかど)」とも呼ばれた。[1]
陽明門を入ってすぐ左手(南側)に左近衛府(さこんえふ/宮中の警護を担った役所)、殷富門を入ってすぐ右手(南側)に右近衛府(うこんえふ)があった[5]ことによる呼び名であろうか。

平安時代、この小路沿いには公家の邸宅や厨町(くりやまち/役所ごとに京内に設けられていた下級役人などの宿所)などがあった。[4][6]
平安京造営当初、この大路の北側(北限は土御門大路、西限は無差小路)に籍田(天皇の耕す田)が設けられ、後に「華園(花園)離宮」と呼ばれる離宮となり、12世紀には源有仁(みなもとのありひと)の邸宅「池館」も営まれた。[7]
池館は源平の争乱で焼失したという[7]が、華園(花園)離宮は暦応五/延元三(1342)年に花園上皇が関山慧玄(かんざんえげん/妙心寺の開山[寺を開創した僧])に管領することを命じて[8]禅寺に改められ、妙心寺となった。

『今昔物語集』巻三十一によれば、西堀川小路との交差点の北西には宗岡高助(むねおかたかすけ)という下級官人の邸宅があり、この大路に面して唐門を開いていたという。

平安時代から安土桃山時代まで、この大路の南側、西洞院大路~油小路には左獄(さごく)と呼ばれた獄舎があった[6]が、天正十三(1585)年に豊臣秀吉の命令で小川通と御池通の交差点を上がったところへ移転し、さらに宝永六(1709)年には宝永の大火で焼失したため六角通と神泉苑通との交差点を西へ入ったところへ移転した[9]
東京極大路からさらに東へ道が延び、その出口を今道の下口・荒神口・吉田口などと称した。[10]

室町時代には上京の中心から外れていたため、この大路の左京部分はさほど発展しなかった[11]が、富小路から猪隈小路にかけて7軒の酒屋があった[12]ようである。

文正二/応仁元(1467)年~文明九(1477)年の応仁の乱では、応仁元(1467)年六月に西洞院大路との交差点付近で東軍の畠山政長(はたけやままさなが)勢と西軍の斯波義廉(しばよしかど)勢が衝突するなど、戦場となって兵火による延焼も受けることもあった。[13]
大宮大路以東のこの大路は荒廃し[14]、乱後は上京・下京の両市街の外に位置したため、この大路沿いは室町小路との交差点付近を除いて田園風景が広がっていたとみられる。[15]

元亀四(1573)年、北は土御門大路、南はこの大路、東は高倉小路、西は烏丸小路で囲まれた地域に、織田信長によって「新在家(しんざいけ)」という都市集落が建設された。[16]
新在家は惣構で囲まれていたという。[16]

左京部分の通りは天正年間(1573~1592)に再開発され、烏丸通との交差点の西に湧き水があり、時々溢れて道路が浸水したことから「出水通」と呼ばれるようになったという。[14]
『勘仲記』弘安七(1284)年閏四月十七日条によれば、洪水により、烏丸小路との交差点の北西角にあった近衛殿(このえどの/摂関家の近衛家の邸宅)の烏丸小路に面した棟門が流出したり、築地塀が転倒したのをはじめ、周辺の多くの民家が被害を受けたようであり、「出水」と縁の深い通りであったことがうかがえる。

天正年間(1573~1592)の公家町(くげまち/内裏を取り囲むように公家の邸宅が集められた区域)の整備や慶長十六(1611)年~慶長十九(1614)年の内裏の拡大などによって寺町通~間之町通の道路が消滅し、通りは分断してしまった。[14]

応仁の乱後、荒廃していた妙心寺の再興にあたり、妙心寺の門前の東西路が延びて妙心寺道となった[17]ようであり、これが近衛大路の右京部分にあたる通りである。
天正十九(1591)年、豊臣秀吉によって現在の佐井通付近に「御土居」(おどい/京都市街を囲った土塁と堀)が築かれた[18]当初は、妙心寺道には出入り口は設けられたなかったと考えられるが、元禄十五(1702)年に描かれた『京都惣曲輪御土居絵図』によれば、江戸時代に入ってから妙心寺道にも御土居の出入り口が開かれたようである。

江戸時代、出水通沿いには職人が多かったという。[19]
東は間之町通まで達していたが[19]、宝永五(1708)年、公家町が烏丸通の東側まで拡大した[20]ことに伴い、烏丸通以東の通りが消滅した。
また、幕末の文久二(1862)年には、京都守護職上屋敷の建設に伴って出水通の新町通~西洞院通が消滅した。[14]

江戸時代の地誌『京町鑑』の下立売通の項には、中保町(なかほちょう/現在の中京区西ノ京中保町)から木辻村の成願寺や願王寺の前を通って妙心寺の門前に向かう通りに関する記述がある[21]が、位置関係から妙心寺道のことであると考えられる。
妙心寺道は江戸時代には「妙心寺海道」と呼ばれた[22]ほか、「下立売街道」とも呼ばれた[23]ようである。
現在でも「上ノ下立売通(かみのしもだちうりどおり)」の別称がある。

現在の出水通は、住宅地の中を走る狭い通りである。
東京極大路以東へ延びていた道路にあたるのが、寺町通以東にある荒神口通である。
鴨川の東側、川端通以東には近衛通があるが、こちらは京都大学開校後に農道を整備し[24]、近衛大路にちなんで名付けられたものである。

[1] 『拾芥抄』(『故実叢書』第11巻増訂版、吉川弘文館ほか、1928年、386~389頁)

[2] 『春記』長暦四(1040)年十月二十三日条

[3] 『権記』長保二(1000)年十一月三日条

[4] 『拾芥抄』所収「西京図」

[5] 古代学協会・古代学研究所編『平安京提要』 角川書店、1994年、150頁

[6] 古代学協会ほか編、同上、180頁

[7] 荻須純道『正法山六祖伝訓註』 思文閣出版、1979年、66頁

[8] 「角川日本地名大辞典」編纂委員会編『角川日本地名大辞典 26(京都府)』上巻、角川書店、1982年、1374頁

[9] 『京都御役所向大概覚書』下巻 清文堂出版、1973年、223~224頁

[10] 「角川日本地名大辞典」編纂委員会編、前掲書(京都府上巻)、972頁

[11] 「角川日本地名大辞典」編纂委員会編『角川日本地名大辞典 DVD-ROM』 角川学芸出版、2011年

[12] 『酒屋交名』(『北野天満宮史料 古文書』 北野天満宮、1978年、34~46頁)

[13] 『後法興院記』応仁元(1467)年六月七日条

[14] 『京都坊目誌』(『新修京都叢書』第17巻、臨川書店、1976年、285頁)

[15] 高橋康夫『京都中世都市史研究』 思文閣出版、1983年、「第30図 戦国期京都都市図」

[16] 高橋、同上、363頁

[17] 高津明恭『平安京西の京厨町物語』 2006年、17頁

[18] 尾下成敏・馬部隆弘・谷徹也『京都の中世史6 戦国乱世の都』 吉川弘文館、2021年、186頁

[19] 『京羽二重』(『新修京都叢書』第2巻、臨川書店、1969年、21頁)

[20] 同年発生した宝永の大火後の復興にあたり、公家町が再編された。 京都市編『史料京都の歴史』第7巻(上京区) 平凡社、1980年、197・211頁

[21] 『京町鑑』(『新修京都叢書』第3巻、臨川書店、1969年、261頁)

[22] 『京都御役所向大概覚書』上巻 清文堂出版、1973年、212~213頁

[23] 京都市編『史料京都の歴史』第14巻(右京区) 平凡社、1994年、295頁

[24] 「角川日本地名大辞典」編纂委員会編、前掲書(京都府上巻)、1374頁