朱雀大路と西大宮大路の中間に位置する大路。

平安時代、二条大路との交差点の南東角に穀倉院(こくそういん/朝廷の食料庫)、三条坊門小路との交差点の南東角に藤原良相(ふじわらのよしみ/平安時代前期の公家)の邸宅「西三条第(百花亭)」があった。[2]
四条大路の北側には、この大路をはさんで東側に朱雀院(すざくいん/宇多天皇や朱雀天皇の譲位後の御所)、西側に源高明(みなもとのたかあきら)の邸宅である西宮(にしのみや)があったが、西宮は安和二(969)年の安和の変による高明の失脚で荒廃した。[3]
慶滋保胤(よししげのやすたね)は著書『池亭記(ちていき)』の中で、右京の衰退の原因は西宮の荒廃にあるとしている。

右京が衰退したとされる平安時代中期以降も、平安時代後期から鎌倉時代にかけて、右京六条域(六条坊門小路以南)ではこの大路を境に東側で町家や御堂、園地など多くの遺構が発掘調査[4][5]によって見つかっている。
また、発掘調査[6](後述)によって、この大路が場所によっては鎌倉時代まで道路として機能していたことが判明した。

七本松通は元和元(1615)年に開通し、江戸時代には、北は五辻通から南は下立売通の南までであった。[7][8]
「七本松通」の名はの由来は、この通り沿いに一株から7本に分かれた松があったこと[8]や、天暦年間(947~957)に一夜に松が7本生えたという逸話[7]など諸説ある。

明治二十七(1894)年の平安京遷都千百年事業で編纂された『平安通志』付図「平安京舊址實測全圖」では、条坊復元線のずれを考慮すると、皇嘉門大路が概ね二条大路~三条大路・四条大路~九条大路で小道や水路として明治時代まで踏襲されていたことが分かる。

第二次世界大戦中には、七本松通の寺之内通~国鉄(現・JR)山陰連絡線[9]などで建物強制疎開(空襲による延焼を防ぐ目的で防火地帯を設けるため、防火地帯にかかる建物を強制的に撤去すること)が行われた。[10]
戦後、疎開跡地を利用して道路の拡幅が行われたため、京都貨物駅以北は若干ながら広い通りとなっている。

◆昭和六十三(1988)~平成元(1989)年度の皇嘉門大路の発掘調査[6]では、四条大路との交差点を下がった地点で、平安時代前半~鎌倉時代の遺物を伴う皇嘉門大路の路面と東西両側溝が検出されている。

◆平成九(1997)年度の右京三条一坊の発掘調査[11]では、三条坊門小路との交差点の北側で、平安時代前期に造られて平安時代中期に埋まった後、鎌倉時代中期まで機能していたとみられる皇嘉門大路東側溝と平安時代の路面が検出された。
路面は平安時代前期に整備されたが、改良のため平安時代中期に再整備されていたことが明らかになった。


[1] 古代学協会・古代学研究所編『平安京提要』 角川書店、1994年、953頁

[2] 『拾芥抄』所収「西京図」

[3] 古代学協会ほか編、前掲書、332~334頁

[4] 梅川光隆・杉山信三ほか『平安京右京六条一坊 -平安時代前期邸宅跡の調査-』京都市埋蔵文化財研究所調査報告第11冊 (財)京都市埋蔵文化財研究所 1992年

[5] (財)京都市埋蔵文化財研究所『平安京右京六条一坊・左京六条一坊跡』京都市埋蔵文化財研究所調査概報2002-6 2002年

[6] 京都文化博物館『平安京右京五条一坊皇嘉門大路京都市中京区壬生高樋町』京都文化博物館調査研究報告第5集 1990年

[7] 『京都坊目誌』(『新修京都叢書』第17巻、臨川書店、1976年、24頁)

[8] 『京町鑑』(『新修京都叢書』第3巻、臨川書店、1969年、237~238頁)

[9] 山陰連絡線は平成二十八(2016)年に廃止。

[10] 建設局小史編さん委員会編『建設行政のあゆみ 京都市建設局小史』 京都市建設局、1983年、34~41頁及び別添地図その2「建物疎開跡地利用計画図」

[11] 吉村正親「平安京右京三条一坊4」『平成9年度京都市埋蔵文化財調査概要』(財)京都市埋蔵文化財研究所 1999年