近衛大路と中御門大路の中間に位置する小路。
この小路に沿って、西室町川が馬代小路から道祖大路まで東流し、佐比川に注いでいたとされる。[5]

この小路沿いには、平安時代、公家の邸宅や厨町(くりやまち/役所ごとに京内に設けられていた下級役人などの宿所)の他に左獄(さごく)・右獄(うごく)という獄舎があり、晒し首などが行われた。[4][6]
左獄は平安時代から安土桃山時代までこの小路の北側、西洞院大路の西側にあった[6]が、天正十三(1585)年に豊臣秀吉の命令で小川通と御池通の交差点を上がったところへ移転し、さらに宝永六(1709)年には宝永の大火で焼失したため六角通と神泉苑通との交差点を西へ入ったところへ移転した[7]
右獄はこの小路の南側、西堀川小路の西側にあった[8]が、『百錬抄』建久四(1193)年三月二十五日条には、同日に右獄の囚人たちが獄を切り破って逃走したという記事があり、これ以降に衰退・廃絶したとみられ、鎌倉時代後期以降に編纂された『拾芥抄』所収の「西京図」には記載されていない。

嘉禄三(1227)年に再建途上であった内裏が全焼し[9]、大内裏が荒廃した後は、大内裏を突き抜けて東西の勘解由小路が一本につながったという。[10]

この小路の左京部分は鎌倉時代は邸宅街であったが、室町時代は商業街として発展した。[11]
東京極大路から猪隈小路にかけて11軒の酒屋があった[12]ようである。

文正二/応仁元(1467)年~文明九(1477)年の応仁の乱では、この小路沿いに西軍の主要人物であった斯波義廉(しばよしかど)の邸宅「武衛殿(ぶえいどの/武衛陣)」(室町小路との交差点の南東角)[13]があったことから、乱の序盤に武衛殿付近が複数回にわたって戦場となり[14]、兵火による延焼も受けた。
乱後は上京・下京の両市街の外に位置したため、この小路沿いは室町小路との交差点付近を除いて田園風景が広がっていたとみられる。[15]

永禄二(1559)年から永禄三(1560)年にかけて、斯波氏の武衛殿(室町小路との交差点の南東角)を再興して足利義輝(あしかがよしてる/室町幕府第十三代将軍)の邸宅(二条御所)が築かれた。[13][16]
永禄八(1565)年の永禄の変によって義輝は殺害され、二条御所も焼失して付近も戦場となった[17]が、永禄十二(1569)年に織田信長が跡地を拡張して室町幕府第十五代将軍の足利義昭のために邸宅(旧二条城)を造営した。[18]
旧二条城の範囲は北は近衛大路、南は春日小路の北、東は東洞院大路、西は町小路の東と推定されている[19]が、元亀四(1573)年に義昭が信長に追放された後、旧二条城は破却された[18]

豊臣政権の頃にこの通りで呉服の立ち売りが行われたことから、「下立売通」と呼ばれるようになったという。[20]
一説には、絹巻物を裁縫(たちぬい)して売ったので「立売」と呼んだともいう。[21]

天正十九(1591)年、豊臣秀吉によって現在の西土居通付近に「御土居」(おどい/京都市街を囲った土塁と堀)が築かれ[22]、元禄十五(1702)年に描かれた『京都惣曲輪御土居絵図』によれば、江戸時代にもこの通りには御土居の出入り口が設けられなかったようである。
この通りの間之町通以東は、天正年間(1573~1592)の公家町(くげまち/内裏を取り囲むように公家の邸宅が集められた区域)の整備や慶長十六(1611)年~慶長十九(1614)年の内裏の拡大などによって消滅した。[23]

江戸時代、この通り沿いには呉服所や板木・柴薪類を商う商家があった。[24]
東は間之町通[24]から西は紙屋川まで[25]の通りであったが、宝永五(1708)年、公家町が烏丸通の東側まで拡大した[23][26]ことに伴い、烏丸通以東の通りが消滅した。

江戸時代の地誌『京町鑑』の下立売通の項には、中保町(なかほちょう/現在の中京区西ノ京中保町)から木辻村の成願寺や願王寺の前を通って妙心寺の門前に向かう通りに関する記述がある[25]が、位置関係から一筋北の妙心寺道(平安京の近衛大路にあたる)のことであると考えられる。
先述のように下立売通には御土居の出入り口がなく、下立売通から連なって西へ向かう通りとして、紙屋川以西では妙心寺道が「下立売街道」とも呼ばれた[27]ようである。

幕末には、北は下長者町通、南は下立売通、東は新町通、西は西洞院通で囲まれた敷地[28]に京都守護職上屋敷が建設され、元治元(1864)年に完成した[29]
元治元(1864)年七月十九日、蛤御門の変(禁門の変)が勃発し、京へ侵入した長州勢が下立売御門から御所へ突入し、蛤御門付近で会津藩や桑名藩、薩摩藩、新選組などの軍勢と激戦を行った。[30]

守護職上屋敷の敷地は、慶応三(1867)年に王政復古の大号令により京都守護職が廃止された後、慶応四(1868)年から陸軍局となり、さらに明治二(1869)年以降は京都府庁となった。[31]

明治二十八(1895)年から大正十五(1926)年にかけて、この通りの烏丸通~堀川通に京都市電(初期には京都電気鉄道)中立売線が走った。
市電が走っていた名残で堀川通以東は比較的広いが、堀川通以西は一方通行の狭い通りである。

[1] 古代学協会・古代学研究所編『平安京提要』 角川書店、1994年、150頁

[2] 『拾芥抄』(『故実叢書』第22巻、明治図書出版、1993年、408頁)

[3] 『本朝世紀』寛和二(986)年二月二十六日条

[4] 『拾芥抄』所収「西京図」

[5] 『京都坊目誌』(『新修京都叢書』第17巻、臨川書店、1976年、24頁)

[6] 古代学協会ほか編、前掲書、180・198~199頁

[7] 『京都御役所向大概覚書』下巻 清文堂出版、1973年、223~224頁

[8] 古代学協会ほか編、前掲書、314頁

[9] 土御門大路と町小路との交差点付近から出火し、東風に乗って燃え広がった「安貞の大火」によるもの。 『百錬抄』嘉禄三(1227)年四月二十二日条

[10] 高津明恭『平安京西の京厨町物語』 2006年、17頁

[11] 「角川日本地名大辞典」編纂委員会編『角川日本地名大辞典 DVD-ROM』 角川学芸出版、2011年

[12] 『酒屋交名』(『北野天満宮史料 古文書』 北野天満宮、1978年、34~46頁)

[13] 山田邦和『京都の中世史7 変貌する中世都市京都』 吉川弘文館、2023年、211頁

[14] 『後法興院記』応仁元(1467)年六月二十五日条・七月三日条・十六日条・二十四日条・二十六日条

[15] 高橋康夫『京都中世都市史研究』 思文閣出版、1983年、「第30図 戦国期京都都市図」

[16] 尾下成敏・馬部隆弘・谷徹也『京都の中世史6 戦国乱世の都』 吉川弘文館、2021年、94~96頁

[17] 『言継卿記』永禄八(1565)年五月十九日条

[18] 尾下ほか、前掲書、96~97頁

[19] 山田(邦)、前掲書、227頁

[20] 『京町鑑』(『新修京都叢書』第3巻、臨川書店、1969年、247頁)

[21] 『京雀』(『新修京都叢書』第1巻、臨川書店、1993年、238頁)

[22] 尾下ほか、前掲書、186頁

[23] 『京都坊目誌』(『新修京都叢書』第17巻、臨川書店、1976年、285頁)

[24] 『京羽二重』(『新修京都叢書』第2巻、臨川書店、1969年、21頁)

[25] 『京町鑑』(『新修京都叢書』第3巻、臨川書店、1969年、259~261頁)

[26] 同年発生した宝永の大火後の復興にあたり、公家町が再編された。 京都市編『史料京都の歴史』第7巻(上京区) 平凡社、1980年、197・211頁

[27] 京都市編『史料京都の歴史』第14巻(右京区) 平凡社、1994年、295頁

[28] 111「守護職上屋鋪絵図」(谷直樹編『大工頭中井家建築指図集 中井家所蔵本』 思文閣出版、2003年、82頁)

[29] 武山峯久『京都新選組案内 物語と史跡』 創元社、2004年、38~39頁

[30] 上京区一二〇周年記念事業委員会編『上京区一二〇周年記念誌』 2000年、47頁

[31] 明治六(1873)年には府庁が二条城に移転し、京都守護職上屋敷跡は中学校となったが、明治十八(1885)年に府庁がこの地に再移転して現在に至っている。 京都市編、前掲書(上京区)、271~272頁