壬生大路と朱雀大路の中間に位置する小路。

平安時代、この小路沿いには二条大路から三条大路にかけて、弘文院(こうぶんいん)・勧学院(かんがくいん)・奨学院(しょうがくいん)という公家の子弟の教育施設や左京職(さきょうしき/左京の行政をつかさどる役所)などがあった。[3]
七条大路との交差点の北西角には東鴻臚館(ひがしこうろかん/外国使節の宿舎)があった[3]が、承和六(839)年に廃止され、典薬寮(てんやくりょう/宮内省に属し、医薬をつかさどった役所)の薬園となったという。[4]

正暦二(991)年、綾小路との交差点の南東角に壬生寺が創建され、建保元(1214)年にこの小路を隔てて向かい側(西側/現在地)に移転した。[5]

『平家物語』(延慶本)によれば、七条大路と坊城小路・壬生大路との交差点の辺りを「北猫間」「南猫間」といい、「猫間中納言(ねこまのちゅうなごん)」と呼ばれた藤原光隆(ふじわらのみつたか)は北猫間に住んでいたという。
『山槐記』治承三(1179)年三月十五日条によれば、藤原(坊門)信隆(ふじわらの[ぼうもん]のぶたか/後鳥羽天皇の外祖父)の邸宅が七条大路との交差点付近に営まれたという。

この小路も、平安時代中期以降の右京の衰退とそれに伴う朱雀大路の衰退の余波を受けたと考えられるが、前述のように平安時代末期にも公家の邸宅があった。
鎌倉時代以降は壬生寺の周辺を除いて衰退したとみられ、南端部では道路が耕作地化(巷所化)した場所もあり、鎌倉時代の永仁四(1296)年には「坊城巷所」の名がみえ[6]、室町時代には「八条坊城巷所」[7]や「唐橋坊城巷所」[8]があったようである。

『康富記』[9]には、七条坊門小路の北側、朱雀大路~坊城小路を「猫間畠」といったとの記述があり[10]、室町時代には七条坊門小路との交差点の北西角が田畑になっていたことがうかがえる。

四条通の周辺では集落が形成され、「壬生村」と呼ばれた。

『元禄十四年実測大絵図(後補書題 )』によれば、江戸時代の坊城通は北は四条通から始まり、南は丹波街道(丹波海道/六条大路にあたる)まで達していたようである。
四条通の南に「坊城通」と記載されていることから、江戸時代も坊城通の名で呼ばれたようである。

寛永十八(1641)年、現在の中央卸売市場の南側の通り~正面通の一筋南(この付近にも坊城小路にあたる通りが部分的に存在した)に遊郭が移され、その移転の様子が島原の乱のようだといわれたことから、「島原」と呼ばれた。[11]
花屋町通との交差点を上がったところには、島原で唯一、現在も茶屋として営業を続ける輪違屋(わちがいや)がある。

綾小路通との交差点の南には、八木邸と旧前川邸(現・田野製袋所)が坊城通を隔てて向かい合う。
幕末の文久三(1863)年から慶応元(1865)年まで、新選組の屯所となった場所であり、この付近は当時農村(壬生村)であったが、屯所が置かれた約3年間は坊城通も新選組の隊士たちで賑わったと思われる。

現在の坊城通は、新選組の屯所跡や壬生寺、輪違屋などの見所を有するものの、全体としては住宅街の中を走る目立たない通りである。

[1] 「角川日本地名大辞典」編纂委員会編『角川日本地名大辞典 26(京都府)』上巻、角川書店、1982年、1274頁

[2] 「九条御領邊図 後慈眼院殿御筆」『九条家文書 三』宮内庁書陵部、1973年

[3] 古代学協会・古代学研究所編『平安京提要』 角川書店、1994年、180~181頁

[4] 『続日本後紀』承和六(839)年八月十二日条

[5] 『日本歴史地名大系 27(京都市の地名)』 平凡社、1979年、825~826頁

[6] 『東寺百合文書』ゐ函/7/1/

[7] 『東寺百合文書』ヤ函/113/

[8] 『東寺百合文書』ゐ函/7/1/

[9] 中原康富(なかはらやすとみ/室町時代の官人)の日記

[10] 『山城名勝志』(『新修京都叢書』第13巻、臨川書店、1968年、239頁)

[11] 京都市編『史料京都の歴史』第12巻(下京区) 平凡社、1981年、299~300・458~459頁