大路・小路について

平安京の街路の構造
平安京の街路には、幅8丈(約24m)以上の大路と幅4丈(約12m)の小路とがある。[1]
三位以上の者(貴族)を除いては、大路に面して出入り口を設けることはできなかった。[1]
街路は、垣[築地(ついじ)/築垣(ついがき)]+犬行(いぬばしり)+側溝+路面+側溝+犬行+垣で構成されており、垣の中心同士を結んだ距離が道幅とされた。[1]

例:道幅10丈の大路(東西路)

大内裏に面する街路では、大内裏側の犬行を壖地(ぜんち)、側溝を隍(ほり)と呼び、規模も異なっていた。[1]

例:道幅10丈の一条大路(大内裏に面する部分)

ちなみに、犬行とは犬が走るのに都合がよいところ(=人が通るところではない)という意味で、壖地とは水際の地(隍のすぐ隣にあるため)という意味である。[2]
大路名・小路名
平城京や長岡京の街路には規則的な名称が付けられているが、平安京の街路名はバラエティーに富んでいる。
これは、大部分の街路名が後から付けられた通称であるためである。
比較的早い段階で付けられたものは、朱雀大路と規則的な名称である(一~九)条大路(一条大路は北極大路、二条大路は宮城南大路、九条大路は南極大路とも[1])、(三~九)条坊門小路、東西の京極大路、東西の大宮大路(宮城東大路・宮城西大路)、東西の堀川小路などであったと考えられ、それ以外の街路名については、平安時代中期の一条天皇の頃に形を整えるに至ったと推定されている。[3]

◆御門大路
一条大路と二条大路の間の4本の大路は「○○御門大路」という(近衛御門大路は近衛大路と言われることの方が多い)。
これらの大路が通じる大内裏の門の通称(○○御門)によるものである。

◆坊門小路
二条大路以南で、各条の中央を東西に走る小路を「坊門小路」という。
平安京では、左京・右京の各条第一坊に坊城(坊ごとに周囲を囲む垣)が築かれたが、坊門小路と朱雀大路の交差点の左京側・右京側にそれぞれ1箇所ずつ「坊門」が置かれたためである。[4]
なお、『小右記』治安三(1033)年六月十一日条には、藤原道長が法成寺(ほうじょうじ)の堂礎を坊門から取った旨の記述があり、この時には坊門は機能を失っていたと考えられる。
現在、通り名としては残っていないが(町名としては残っている)、江戸時代まで「○条坊門通」と呼ばれたものもある。
ちなみに、五条通(六条坊門小路にあたる)と御池通(三条坊門小路にあたる)は、それぞれ京都市街の東西路で1番目、2番目に広い通りとなっている。
閲覧に当たって
年月日は、漢数字表記は旧暦、算用数字表記は西暦を表す。
交差点を起点とした地点の表記については、「上がる」は交差点から北へ行った地点、「下がる」は交差点から南へ行った地点、「西入る」は交差点から西へ行った地点、「東入る」は交差点から東へ行った地点ことをそれぞれ意味する。
「現在の通り」の名称と区間は、「京都市認定路線網図提供システム」に記載の正式なものを記載している。

[1] 『延喜式』(『延喜式第7』、日本古典全集刊行会、1929年、23~38頁)

[2] 岸元史明『平安京地誌』 講談社、1974年、265~267頁

[3] 川勝政太郎「平安京の街路及び地点指示法について」(上)(下)『史跡と美術』第252・253号、史迹美術同攷会、1955年

[4] 「角川日本地名大辞典」編纂委員会編『角川日本地名大辞典 26(京都府)』上巻、角川書店、1982年、1274頁