概要

平安京とは、山背国(やましろのくに)葛野(かどの)・愛宕(おたぎ)の両郡にまたがって建設された都で、延暦十三(794)年十一月二十一日、長岡京より遷都された。
以来、明治二(1869)年に東京に遷都されるまで千年以上の間都であった。
現在の京都市の上京・中京・下京・右京・北・南区にまたがる。

唐の長安(現・中華人民共和国陝西省西安市)に倣った都で、規模は東西一五〇八丈(約4.5km)、南北一七五三丈(約5.2km)であった[1]が、右京(都の西半分)は寂れ、専ら左京(都の東半分)が栄えた。
条坊制[2]

東西の大路によって区画された列を「条」、南北の大路によって区画された列を「坊」という。
条は北辺と一条から九条まで。坊は左京、右京それぞれに一坊から四坊まで。


街路によって区切られた40丈(約120m)四方の一区画を「町」という。
町の数え方は以下の通りである。


こうして、平安京の住所は、
(左または右)京/(一~九)条または北辺
/(一~四)坊/(一~十六)町
と表す。

例:右京二条四坊十五町・左京北辺三坊五町
唐風の呼び名[3]
左京・右京・坊には唐風の呼び名も付けられた。
右京:長安城
(ちょうあんじょう)
左京:洛陽城
(らくようじょう)
右京北辺:北辺坊
(ほくへんぼう)
左京北辺:北辺坊
(ほくへんぼう)
右京一条:桃花坊
(とうかぼう)
左京一条:桃花坊
(とうかぼう)
右京二条:銅駝坊
(どうだぼう)
左京二条:銅駝坊
(どうだぼう)
右京三条:豊財坊
(ほうざいぼう)
左京三条:教業坊
(きょうぎょうぼう)
右京四条:永寧坊
(えいねいぼう)
左京四条:永昌坊
(えいしょうぼう)
右京五条:宣義坊
(せんぎぼう)
左京五条:宣風坊
(せんぷうぼう)
右京六条:光徳坊
(こうとくぼう)
左京六条:淳風坊
(じゅんぷうぼう)
右京七条:毓財坊
(いくざいぼう)
左京七条:安寧坊
(あんねいぼう)
右京八条:延嘉坊
(えんかぼう)
左京八条:崇仁坊
(すじんぼう)
右京九条:開建坊
(かいけんぼう)
左京九条:陶化坊
(とうかぼう)
「洛中」「洛東」「洛西」「洛南」「洛北」という称は、左京を「洛陽城」と呼んだことに由来する。
また、条の唐風の呼び名は橋や小学校の名前に使用されているものもある。
交差点の呼び方
京都では、現在も交差点を「四条烏丸」・「烏丸七条」などと交差する2つの通り名を合成した名前で呼ぶが、これは平安時代に始まる。
現在では、同じ交差点でも「東西の通り名+南北の通り名」・「南北の通り名+東西の通り名」という2つの呼び方が存在するが、平安時代には前者で呼び、小路名が1文字の場合には「小路」まで付けたようである。
ただし、町小路など、小路名が1文字の場合でも、「小路」を付けないものもあったようである。

例:二条大宮・姉小路西洞院・四条町

[1] 『延喜式』(『延喜式第7』、日本古典全集刊行会、1929年、31~32頁)

[2] 古代学協会・古代学研究所編『平安京提要』 角川書店、1994年、103~106・178~179頁

[3] 『拾芥抄』(『故実叢書』第22巻、明治図書出版、1993年、409頁)