楊梅小路 やまももこうじ
造営当初の規模 |
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現在の通り1 |
楊梅通(ようばいどおり) |
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現在の通り2 |
中堂寺通(ちゅうどうじどおり) |
「楊梅小路」というからには、この小路沿いにヤマモモの木があったのだろうか。
平安時代〜鎌倉時代、この小路の町小路以東は公家の邸宅街の様相を呈していた。
平成六(1994)年の右京六条一坊の調査[1]では、西大宮大路との交差点を東に入った地点で、平安京造営からしばらくの間、右京六条一坊十四町内を自然流路が北東方向から南西方向に流れており、流路部分で楊梅小路が途切れていたことが判明した。
平成十七(2005)年度の左京六条三坊五町の調査[2]では、町小路との交差点を東に入った地点で、楊梅小路路面の下で11世紀に属する土師器の廃棄場が検出され、路面は11世紀中葉以降に土師器の廃棄場が埋められた後に形成されたことが判明した。また、平安時代後期以降、路面中央部と北・南築地位置、側溝埋没後の南側溝上で井戸が掘られていたことが判明した。
また、楊梅小路の南側に面して、東西約13m、南北16m以上の範囲で室町時代の甕据付穴(甕を埋め込んだ穴)364基が検出され、地中に甕を並べた大規模な遺構が存在したことが明らかになった。酒を醸造するための甕が並んだ酒倉の遺構と考えられ、中世の酒屋の実態を知ることのできる貴重な遺構といえる。
応永三十二(1425)年の『酒屋交名』によれば、万里小路から町小路にかけて4軒の酒屋があったようである。[3]
この小路の右京部分は、平安時代中期以降の右京の衰退とともに衰退していったと考えられるが、昭和六十二(1987)年度の右京六条一坊の発掘調査[4]では、平安時代末期から鎌倉時代にかけて、皇嘉門大路との交差点を東へ入った地点で楊梅小路に面して町家が建ち並んでいたことが判明し、一概に衰退とはいえないようである。
文正二/応仁元(1467)年〜文明九(1477)年の応仁の乱はこの小路の左京部分を荒廃させ[5]、乱後は下京の市街の外に位置したため、この小路沿いは田園風景が広がっていたとみられる。[6]
天正十八(1590)年、通りの左京部分は豊臣秀吉によって再開発された。[5]
慶長七(1602)年、北は五条(六条坊門)通、南は六条通、東は室町通、西は西洞院通で囲まれた地域に二条通と柳馬場通の交差点付近から遊郭が移され、「六条三筋町(ろくじょうみすじまち/六条柳町)」と呼ばれた。[7]
この時、楊梅小路は当初の位置から約26m北へ移設されたと考えられている。[2]
平成十七(2005)年度の調査[2]では、楊梅小路が平安時代後期から室町時代まで機能していたことが明らかになったが、楊梅小路の路面上では16世紀代の遺構がほとんど見られないのとは対照的に17世紀以後の穴が多数掘られていた。
このことも、遊郭が移された時に楊梅小路が移設されたことを示しているといえる。当時仮に楊梅小路が機能していたとすれば、移設されることはなかったと考えられるが、当時の楊梅小路は相当衰退していたとみられる。
遊郭は、寛永十八(1641)年に島原に移転した。
江戸時代には東は高倉通から西は醒ヶ井通までで、雪踏屋が多く、雪踏屋町通とも呼ばれた。[8]
現在の楊梅通は閑静な狭い通りで、「生活道」というのがふさわしい。
[1]平尾政幸「平安京右京六条一坊」『平成6年度京都市埋蔵文化財調査概要』(財)京都市埋蔵文化財研究所 1996年
[2](財)京都市埋蔵文化財研究所『平安京左京六条三坊五町跡』京都市埋蔵文化財研究所発掘調査概報2005-8 2005年
[3]『酒屋交名』(『北野天満宮史料 古文書』 北野天満宮、1978年、34〜46頁)
[4]梅川光隆・木下保明・丸川義広「平安京右京六条一坊」『昭和62年度京都市埋蔵文化財調査概要』(財)京都市埋蔵文化財研究所 1991年
[5]『京都坊目誌』(『新修京都叢書』第17巻、臨川書店、1976年、302〜303頁)
[6]高橋康夫『京都中世都市史研究』 思文閣出版、1983年、「第30図 戦国期京都都市図」
[7]『京都坊目誌』(『新修京都叢書』第21巻、臨川書店、1970年、245頁)
[8]『京羽二重』(『新修京都叢書』第2巻、臨川書店、1969年、25頁)
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