富小路 とみのこうじ

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別称

京極西小路

造営当初の規模
(『延喜式』記載)

現在の通り1

麩屋町通(ふやちょうどおり)
北は丸太町通から南は五条通に至る通り。四条通以南が平安京の富小路にあたる。

現在の通り2

西木屋町通(にしきやまちどおり)
北は三条通の一筋南から南は七条通に至る通り。上ノ口通以南が平安京の富小路にあたる。

平安時代から南北朝時代にかけて、この小路沿いは邸宅街の様相を呈していた。
小路に沿って、富小路川が流れていたという。[1]

安元三(1177)年、樋口小路との交差点付近から出火し、東はこの小路、西は朱雀大路の西、北は大内裏、南は六条大路までの範囲(京の約3分の1)が延焼した。これを「安元の大火」または「太郎焼亡」と呼ぶ。

平成十(1998)年度の左京北辺四坊の発掘調査[2]では、一条大路との交差点を下がった地点で礫敷舗装がなされた平安時代の富小路路面と平安時代中期の東側溝が検出されたが、西側溝は検出されず、路面想定位置の中央と西築地想定線の東約3〜4mの地点で平安時代後期の南北溝が検出され、計画どおりに造られていなかったことが判明した。条坊計画の半分程度の狭い南北路が通されていた可能性が指摘されている。

平成七(1995)年度の左京三条四坊の発掘調査[3]では、三条坊門小路との交差点の南側で礫敷舗装がなされた平安時代中期の富小路路面と西側溝(推定ラインにほぼ重なる)が検出された。中世末期〜近世初頭の路面も検出され、平成十(1998)年度の調査でも室町時代後期の路面が検出されていることから、富小路は近世初頭まで道路としての機能が維持されたと考えられる。しかし、平成七年度の調査地点では近世初頭のうちに道路が廃絶されており、豊臣秀吉による都市改造によって移設されたと考えられる。

元弘三(1333)年、後醍醐天皇が二条大路との交差点の北東角にあった二条富小路内裏に入り、そこが建武の新政の中心政庁となった。しかし、新政権が瓦解した室町時代以降は、この小路は四条大路〜五条大路を中心に酒屋が点在[4]するのみの街路となってしまった。

文正二(1467)年一月、室町幕府の管領であった畠山政長(はたけやままさなが)が管領を罷免されたことに怒り、大炊御門大路との交差点の北西角にあった自邸に火を放ち、上御霊社(かみごりょうしゃ/上御霊神社)に布陣して応仁の乱が幕を開けた。
乱は文明九(1477)年まで約11年にわたって続いてこの小路を荒廃させ[5]、乱後は上京・下京の市街の外に位置した[6]ため、この小路沿いは田園風景が広がっていたとみられるが、天正十八(1590)年、豊臣秀吉によって再開発された[5]
この時、通りの位置がそれまでの富小路より全体的に東に移されたと考えられ、一筋西に新たに通された通りが「富小路通」を名乗るようになったため、富小路と麩屋町通との間には連続性があるとは言い切れないが、麩屋町通が平安京の富小路に近い。

江戸時代には、麩屋町通沿いに木地屋・東国問屋・灯台屋・銅道具・竹材木などの商家があり、鍛冶や弓師などの職人が住んでいたようだ。[7]
「麩屋町通」の名は、麩を扱う店が多かったことに由来し[7]、江戸時代中期にも三条通との交差点付近に麩屋があったようだ[8]
御池通との交差点の北に白山神社があることから、「白山通」とも呼ばれた。[5][7]

北は椹木町通まで達していた[7]が、宝永五(1708)年、公家町(くげまち/内裏を取り囲むように公家の邸宅が集められた区域)が丸太町通の北側まで拡大した[9]ことに伴い、丸太町通以北の通りが消滅した[5]

麩屋町通は北へ行くにつれて平安京の富小路から東へずれているため、当サイトでは麩屋町通の四条通以南を富小路にあたる通りとして扱った。
ちなみに、京都御苑の富小路口は平安京の富小路のほぼ推定線上に位置する。

毎年7月に行われる祇園祭では、四条通との交差点(四条麩屋町)に斎竹(いみたけ)が建てられ、山鉾巡行当日、長刀鉾(なぎなたぼこ)の稚児が斎竹に張られた注連縄(しめなわ)を切って山鉾巡行が始まる。

[1]『小右記』治安三(1023)年十月二十四日条
[2]丸川義広・能芝勉・木下保明・藤村雅美・辻裕司「平安京左京北辺四坊」『平成10年度京都市埋蔵文化財調査概要』(財)京都市埋蔵文化財研究所 2000年
[3]小森俊寛・上村憲章「平安京左京三条四坊」『平成7年度京都市埋蔵文化財調査概要』(財)京都市埋蔵文化財研究所 1997年
[4]『酒屋交名』(『北野天満宮史料 古文書』 北野天満宮、1978年、34〜46頁)
[5]『京都坊目誌』(『新修京都叢書』第17巻、臨川書店、1976年、222〜223頁)
[6]高橋康夫『京都中世都市史研究』 思文閣出版、1983年、「第30図 戦国期京都都市図」
[7]『京羽二重』(『新修京都叢書』第2巻、臨川書店、1969年、14〜15頁)
[8]『京町鑑』(『新修京都叢書』第3巻、臨川書店、1969年、185頁)
[9]同年発生した宝永の大火後の復興にあたり、公家町が再編された。

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