八条大路と九条大路の中間に位置する小路。
朱雀大路との交差点の左京側・右京側には、それぞれ1箇所ずつ「坊門」[1]が設けられた。

『三代実録』元慶三(879)年九月二十五日条には、鴨川に辛橋(唐橋/韓橋)が架けられていた旨の記述があり、『拾芥抄』にはこの小路と信濃小路の両方の別称として「唐橋小路」の名が記載されているが[2]、東寺境内の領域を南は九条大路から北は辛橋(唐橋)小路まで南北二町とする『帝王編年記』の記述から、橋が架けられていたのはこの小路であると考えられている。
この橋は、平安京に隣接する部分の鴨川で最初に架けられた本格的な橋であるとされ[4]、橋守が置かれていた[5]ようで、重要な橋であったことがうかがえる。
ちなみに、唐橋は羅城門南側の溝に架けられた橋とする説や東寺の西の紙屋川(現在の西高瀬川)に架けられた橋とする説[6]もある。

平安時代、この小路沿いには藤原師輔(ふじわらのもろすけ/平安時代中期の関白)の九条殿(くじょうどの)などの公家の邸宅、西洞院大路との交差点の南東角に施薬院(せやくいん/貧しい病人を収容・治療する施設)、南西角に綜芸種智院(しゅげいしゅちいん/空海が創設した庶民のための教育施設)があった[7]が、当初から空閑地が多かったとみられる。[3][8]
大宮大路との交差点の西側には東寺(とうじ)、西大宮大路との交差点の東側には西寺(さいじ)という平安京を守護する官立寺院が置かれた。[3][8]
東寺は現在もほぼ同じ場所に存在しているが、西寺は天福元(1233)年の火災によって塔が焼失[9]して以降衰退し、廃絶したと考えられているが、『二水記』大永七(1527)年十月二十七日条に西寺に陣を敷いたとの記述があることから、東寺の末寺となって戦国時代まで存続したとの見方[10]もある。

空海の著作『三教指帰』によれば、平安時代前期の左京九条周辺は湧き水多く、流水が満ち溢れていたようである。[7]

暦仁元(1238)年、鎌倉幕府が京に篝屋(かがりや/警護のために設けられた武士の詰所)を設置した[11]際、この小路には大宮大路との交差点に篝屋が設置された。[12]

南北朝時代以降は周辺の道路の耕作地化(巷所化)が進み、応安三(1370)年の「東寺領巷所検注取帳案」によれば、堀川小路~大宮大路に東寺領巷所が点在したが、同年時点ではこの小路の路面部分は巷所化されていなかったようである。[13]
田地に関する文書にこの小路の名が散見されることから、この小路沿いには耕作地が広がっていたとみられるが、専ら「唐橋小路」の名が用いられており、唐橋小路の名で定着していたことがうかがえる。

『太平記』によれば、足利高氏らが六波羅探題(ろくはらたんだい/鎌倉幕府の出先機関)を攻め落とす際、六波羅探題の軍勢がこの小路にも展開したという。
また、南北朝時代の争乱では足利尊氏(後醍醐天皇の名「尊治」から一字を賜って改名)が東寺に陣を構えたことから、東寺や東寺周辺がしばしば戦場となった。

「唐橋」の名は地域名として定着し、『二水記』大永七(1527)年十月二十四日条には「唐橋の里」の名がみえる。
ルイス・フロイス(ポルトガル人宣教師)の元亀四(1573)年五月二十七日付書簡には、織田信長によって焼かれた村の1つとして「西唐橋」の名が挙げられている。[14]
江戸時代には、西大宮大路との交差点周辺の集落が「唐橋村」と呼ばれた。

『稲荷神社志料』によれば、天正十六(1588)年、伏見稲荷大社(稲荷社)の御旅所が集約されて油小路との交差点の北西角に移された。[15]

江戸時代には再び九条坊門通とも呼ばれ、東は油小路から西は大宮通までで[16]、堀川の西に家があったが、農家であったという[17]
また、大宮通の東にも民家があったようである。[18]

この時期には一筋南の信濃小路にあたる通りが「唐橋通」と呼ばれたり、九条坊門通が誤って「信濃小路」と呼ばれることもあったようである。[17][18]
江戸時代の京都町奉行所の手引書『京都御役所向大概覚書』には、公儀橋(幕府直轄の橋)として「堀川筋信濃小路橋」が挙げられている[19]が、これはこの通りの橋であったと思われる。
ただし、『元禄十四年実測大絵図(後補書題 )』では九条坊門小路にあたる通りが唐橋通として描かれており、油小路以東(御土居の外側)も高瀬川西岸まで道が続いていることから、御土居の外側(東側)でも通りが残っていたとみられる。

江戸時代の稲荷祭では、四月の還幸祭でこの通の油小路通→大宮通が神輿の巡行路となった。[20]

「東寺道」の名は、東寺に突き当たることに由来する。
東寺道は明治時代以降に整備・延長されたようである。[21]

第二次世界大戦中に東寺道の竹田街道~大宮通で建物強制疎開(空襲による延焼を防ぐ目的で防火地帯を設けるため、防火地帯にかかる建物を強制的に撤去すること)が行われ、戦後、疎開跡地を利用して道路の拡幅が行われた。[22]
竹田街道~油小路通は、ヨーロッパが発祥の歩車共存道路(ボンネルフ道路)を取り入れたコミュニティ道路となっている。

[1] 『小右記』治安三(1033)年六月十一日条には、藤原道長が法成寺(ほうじょうじ)の堂礎を坊門から取った旨の記述があり、この時には坊門は機能を失っていたと考えられる。

[2] 『拾芥抄』(『故実叢書』第22巻、明治図書出版、1993年、408頁)

[3] 『拾芥抄』所収「西京図」

[4] 増渕徹「鴨川と平安京」(門脇禎二・朝尾直弘共編『京の鴨川と橋 その歴史と生活』 思文閣出版、2001年、35~37頁)

[5] 『三代実録』仁和三(887)年五月十四日条

[6] 『扶桑京華志』(『新修京都叢書』第22巻、臨川書店、1972年、81頁)

[7] 空海「綜芸種智院の式」『三教指帰・性霊集』 岩波書店、1965年、420頁

[8] 古代学協会・古代学研究所編『平安京提要』 角川書店、1994年、302~309頁

[9] 『百錬抄』天福元(1233)年十二月二十四日条

[10] 「角川日本地名大辞典」編纂委員会編『角川日本地名大辞典 26(京都府)』下巻、角川書店、1982年、95~96頁

[11] 野口実・長村祥知・坂口太郎『京都の中世史3 公武政権の競合と協調』 吉川弘文館、2022年、137~139頁

[12] 塚本とも子「鎌倉時代篝屋制度の研究」『ヒストリア』第76号、1977年

[13] 『東寺百合文書』ひ函/17/

[14] 『日本歴史地名大系 27(京都市の地名)』 平凡社、1979年、1003頁

[15] それまでは、八条坊門猪隈(八条坊門小路と猪隈小路との交差点)と七条油小路(七条大路と油小路との交差点)の2箇所にあった。 京都市編『史料京都の歴史』第12巻(下京区) 平凡社、1981年、491~492頁

[16] 『京都坊目誌』(『新修京都叢書』第17巻、臨川書店、1976年、310頁)

[17] 『京羽二重』(『新修京都叢書』第2巻、臨川書店、1969年、25頁)

[18] 『山州名跡志』(『新修京都叢書』第16巻、臨川書店、1969年、137頁)

[19] 『京都御役所向大概覚書』下巻 清文堂出版、1973年、7頁

[20] 同上、22頁

[21] 「角川日本地名大辞典」編纂委員会編『角川日本地名大辞典 26(京都府)』上巻、角川書店、1982年、989頁

[22] 建設局小史編さん委員会編『建設行政のあゆみ 京都市建設局小史』 京都市建設局、1983年、34~41頁及び別添地図その2「建物疎開跡地利用計画図」