平安京の最も南に位置する大路。
朱雀大路との交差点の南側に面して平安京の正門である羅城門(らじょうもん)があった[5]が、弘仁七(816)年に倒壊し[6]、再建されるも天元三(980)年に再び倒壊し[7]、以後再建されることはなかった。
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この大路の南側に沿って、両側に7尺(約2.1m)の犬行(いぬばしり)と1丈(約3m)の側溝を備えた羅城が築かれ、羅城の外側には「羅城外大路」という大路が設けられたとされている。[8]
しかし、発掘調査[9](後述)では『延喜式』の記載とは異なる羅城の基底(基礎)部(幅約3m)が検出されたものの、羅城の外側(南側)の犬行と側溝は検出されず、羅城外大路(犬行・側溝を含む)は存在しなかった可能性が高いと考えられる。

大宮大路との交差点の西側には東寺(とうじ)、西大宮大路との交差点の東側には西寺(さいじ)という平安京を守護する官立寺院が置かれた。[3][5]
東寺は現在もほぼ同じ場所に存在しているが、西寺は天福元(1233)年の火災によって塔が焼失[10]して以降衰退し、廃絶したと考えられているが、『二水記』大永七(1527)年十月二十七日条に西寺に陣を敷いたとの記述があることから、東寺の末寺となって戦国時代まで存続したとの見方[11]もある。

平成八(1996)年度の左京九条一坊の立会調査[12]では、現在の大宮通から壬生通にかけて、九条大路の路面が東西約130mにわたって検出された。
また、東寺の南面に当初から堀が存在した可能性が指摘されている。

『三代実録』貞観十一(870)年十二月八日条によれば、道祖(佐比)大路との交差点には「佐比大路南極橋」という橋があり、交差点の南側は「佐比河原」と呼ばれた葬送の地[13]であった。
この大路の右京部分は棺を佐比河原に運ぶ葬列の通る道であったが、佐比大路南極橋は佐比川が屈折する地点にあるうえに、棺を運ぶ人々が渡るのを躊躇するほど脆弱で甚だ危険であったため、補修を行ったという。
『中古京師内外地図』によれば、九条大路に沿って西京極川から西堀川まで流れる水路と佐比川が道祖(佐比)大路との交差点で合流しており、佐比大路南極橋はこの合流地点にあった橋であると考えられる。

『類聚三代格』巻十六、貞観十三(871)年閏八月二十八日付太政官符には「京南大路西末」の記述がみられ、平安京西南隅付近では、本来京域であった部分が9世紀の段階で既に京域とは見られていなかったことがうかがえるとともに、この付近では九条大路が敷設されなかったことが指摘されている。[2]

平安時代後期以降、左京九条域には公家や皇族の御堂が多く建てられ、この大路沿いにも九条堂(東洞院大路との交差点の北東角)や九条堀川堂(堀川小路との交差点の北東角)があったようである。[14]

平安時代末期には、この大路沿いに皇嘉門院(こうかもんいん/崇徳天皇の中宮)の御所や藤原兼実(ふじわらのかねざね/皇嘉門院の弟で平安時代末期~鎌倉時代初期の摂政・関白)の九条亭(九条第)などがあった。[5]
皇嘉門院の御所は、万里小路との交差点の北西角(左京九条四坊五・六町)にあったとされているが、たびたび炎上したため、この大路の南側、万里小路の延長部分(万里小路末)の東側(京外)に御所を新造し[5]、新造御所の南側の小路(京外)を「今小路」と呼んだ[15]という。
藤原兼実の九条亭(九条第)は、東限が富小路であったという『玉葉』の記述[16]から富小路との交差点の北西角(左京九条四坊十二町/皇嘉門院の御所の東隣)にあったとされており、皇嘉門院の死後は皇嘉門院の御所も兼実の所有となったようである。[17]

治承五(1181)年閏(うるう)二月四日、平清盛は平盛国(たいらのもりくに)邸で息を引き取ったが、『吾妻鏡』養和元(1181)年閏二月四日条によれば盛国邸は九条河原口(『中古京師内外地図』によればこの大路沿いの平安京南東隅/左京九条四坊十三町)にあったようである。

鎌倉時代以降、九条亭(九条富小路亭)が九条家(兼実を祖とする五摂家の1つ)代々に伝領された。[18]
暦仁元(1238)年、鎌倉幕府が京に篝屋(かがりや/警護のために設けられた武士の詰所)を設置した[19]際、この大路には高倉小路との交差点に篝屋が設置された。[20]

『太平記』によれば、南北朝時代の争乱では足利尊氏が東寺に陣を構えたことから、東寺や東寺周辺がしばしば戦場となった。
延元元/建武三(1336)年には、九条家代々の女性が入寺していた不断光院(ふだんこういん/尼寺)が戦火により富小路との交差点の南西に移転してきたという。[21][22]
応永七(1400)年には、今小路(皇嘉門院の新造御所南側の小路と同一とみられる)と富小路との交差点付近の屋敷地等が不断光院に売却された記録が残っている。[23]

幅約36mの立派な大路であったが、南北朝時代に巷所化(道路の耕作地化)が進み、応安三(1370)年の「東寺領巷所検注取帳案」によれば、同年時点でこの大路の堀川小路~猪隈小路(北側)と猪隈小路~大宮大路(北側)、猪隈小路との交差点付近(南側)が東寺領巷所となっていたようである。[24]
寛正二(1461)年には、九条大路の巷所化によって道路が狭められて通行に支障をきたしたため、東寺では寺の南側(大宮大路~壬生大路)で築地塀から12丈(本来の道幅/約36m)のところに9本の杭を打ち、道路と私有地との境界を明確にして巷所化を防ごうとしたという記録が残っている。[25]
大路沿いも次第に田園化していき、左京のおおよそ八条大路以南は「九条村」という田園集落となった。

周辺が「東九条領」と呼ばれる九条家の所領であったことから、九条家は既に洛中とはいえなくなった場所に位置する九条亭をなおも拠点として維持し続け、九条家の家司(家僕)[26]たちは邸宅周辺の東九条に居を構えた。[27]
明応五(1496)年一月七日には、九条政基(くじょうまさもと/室町時代末期~戦国時代初期の関白)・九条尚経(くじょうひさつね/政基の長男で後に関白となる)父子が九条亭において、九条家の家司であった唐橋在数(からはしありかず)を殺害するという事件を起こしている。[28]

政基の日記『政基公旅引付』文亀元(1501)年閏六月四日条によれば、同年六月に尚経が関白に任じられた際、詔書(しょうしょ/天皇の命令を伝える文書)の作成に関わる外記(げき)の在所が遠く、当日九条亭に持参するのが困難なため、尚経は九条家の家司であった富小路俊通(とみのこうじとしみち)の邸宅で詔書を拝覧したという。
永正十六(1519)年の尚経の筆による「山城国東九条領条里図」には、平安時代末期~鎌倉時代初期の九条亭(九条第)の所在地と推定されている左京九条四坊十二町(富小路との交差点の北西角)に「中殿」と記されており、これが九条亭ではないかと考えられる。[29]
戦国時代の九条大路は、大路上に木戸[30]があったようである。[31]

元亀四(1573)年、織田信長の軍勢が足利義昭(あしかがよしあき/室町幕府第十五代将軍)を討伐すべく京に攻め上ってきたため、ルイス・フロイス(ポルトガル人宣教師)は京のキリシタンの助言によって九条村に逃れ、一時滞在した。[32]
昭和五十九(1984)年度の左京九条二坊十三町の発掘調査では、油小路との交差点の北東でポルトガル語で記されたキリシタン関係とみられる荷札が出土しており[33]、これらを考え合わせると、この付近にキリシタンが多数居住する集落があった可能性が高いと考えられる。
フロイスの元亀四(1573)年五月二十七日付書簡には、織田信長によって焼かれた村の1つとして「西九条」の名が挙げられている[34]が、東九条は焼かれなかったということであろうか。

天正十九(1591)年、九条通に沿って油小路通~千本通の東に、豊臣秀吉によって「御土居」(おどい/京都市街を囲った土塁と堀)が築かれ、東寺付近を除いて完全に洛外の通りとなった。[35][36]
九条亭については、享禄二(1529)年に九条富小路と万里小路の間の九条家屋敷地が売却された形跡[37]がみられ、天正十三(1585)年「九条家当知行并不知行所々差出目録案」には東九条富小路亭(九条亭)が不知行分(物件を有するが、何らかの理由によって物件を行使することができないもの)として挙げられている[38]ものの、何らかの拠点は維持されたと考えられ、江戸時代には九条通の南側、東洞院通(竹田街道)の東に九条家の下屋敷(陶化殿)[39]が置かれた[40]

江戸時代の九条通は、東は大宮通の東までで民家が立ち塞ぎ、御土居の西側(外側)は西丘や山崎等への往還道となっていたという。[41]
ただし、御土居の外側でも、御土居の東側から高瀬川西岸にかけて九条通が存在したようである。[40]

大宮通の東側には集落があり、概ね西洞院通付近を境に東側は「東九条村」、西側は「西九条村」と呼ばれた。
俳諧書『毛吹草』には、九条の名産として直桑(まくわ)・青瓜・芋・扣菽(うちまめ)・水菜・藍が挙げられている。[42]
九条地域は蔬菜(≒野菜)の生産地で、甜瓜、姫瓜、芋、水菜、葱、藍の生産が行われていたようであり[43]、そのうち葱は「九条葱」として有名である。

東寺の南大門の辺りにも民家が少しあったが、皆農家であったという。[44]
江戸時代の稲荷祭では、四月の還幸祭で九条通の大宮通~東寺の南大門が神輿の巡行路となった。[45]

『陶化小学校所蔵文書』によれば、明治五(1872)年に九条家の下屋敷(陶化殿)を借りて東九条校(後の陶化小学校、平成二十四[2012]年に閉校)が仮に設立され、明治六(1873)年に正式に授業が開始された。[46]

昭和時代初期までは、竹田街道の西~大宮通には通りがなく、東側では「大石橋通」、西側では「四ツ塚通」と呼ばれたようである。[47]
大宮通との交差点は、南下してきた大宮通が西に曲がっており、南(十条通方面)と西(千本通方面)へ向かう道はあったが、東へ向かう道はなく、「猫の曲がり」「猫の七曲がり」と呼ばれた。[48][49]
これらの呼び名の由来は、東寺の築地塀(ついじべい)の南東隅にあった白虎(びゃっこ/西を守護する神)の像が猫に見えた、かつて猫の捨て場であり、野良猫が溢れていたなどの諸説があり、江戸時代の地誌『京町鑑』にも、大宮通の南端であった東寺の辰巳(南東)の角に猫があったことから「猫が辻」と呼んだとの記述[50]がある。

大正十(1921)年から15年近くにわたって行われた京都都市計画道路新設拡築事業で、竹田街道の西~大宮通も含め、九条通の東大路通~西大路通が京都市区改正街路3号線として拡幅・整備された。[51]
昭和三(1928)年には、大石橋通と四ツ塚通が「九条通」ではなく「九条大路」に改称されており、興味深い。[47]
ちなみに、現在でも正式名称は九条大路である。

昭和八(1933)年から昭和十四(1939)年にかけて京都市電九条線東福寺~西大路九条が開業し、西大路通以西に電車が走ったが、昭和五十三(1978)年に全線廃止された。

九条通は幹線道路として重要な役割を果たしており、油小路通~壬生通が国道1号とも重なっている。
西へ行くにつれて少しずつ南へずれており、壬生通の一筋西の通り以西では九条通の一筋北の通り(唐橋小学校の南側の通り)の方が平安京の九条大路に近い。

野菜の栽培地であった九条地域は住宅地化が進み、有名な九条葱も、主な生産地は郊外や南丹、丹後などに移っている。
九条家の邸宅を偲ぶものは現在ではほとんどなく、江戸時代の下屋敷(陶化殿)跡地の一角に新宮神社がひっそりと佇むのみであるが、城興寺や九品寺をはじめ、九条家とゆかりの深い寺院が現在も九条通周辺に点在する。

◆ 平成三十(2018)年~平成三十一/令和元(2019)年の九条大路跡の発掘調査[9]では、西大宮大路との交差点を西へ入った地点で、平安時代の九条大路路面と南北両側溝、平安京南限の羅城の基底(基礎)部が検出された。
九条大路は平安京造営当初、南側溝と羅城の間の犬行(いぬばしり)を含めて『延喜式』の規定どおりに造られたことが判明したが、『延喜式』の記載とは異なる羅城の基底部(幅約3m)の存在が確認され、調査地点では羅城の外側に外側(南側)に犬行と側溝は存在しなかったことが判明した。
羅城本体は検出されていないが、柱列がないことから築地塀(築垣)であった可能性が指摘されている。
また、九条大路北側溝は10世紀に3m南側に掘り直され、路面幅が狭くなったことが判明した。


[1] 『延喜式』(『延喜式第7』、日本古典全集刊行会、1929年、32頁)

[2] 古代学協会・古代学研究所編『平安京提要』 角川書店、1994年、173頁

[3] 『拾芥抄』所収「西京図」

[4] 岸元史明『平安京地誌』 講談社、1974年、273頁

[5] 古代学協会ほか編、前掲書、302~309頁

[6] 『日本紀略』弘仁七(816)年八月十六日条

[7] 『百錬抄』天元三(980)年七月九日条

[8] 『延喜式』(『延喜式第7』、日本古典全集刊行会、1929年、25~34頁)

[9] (公財)京都市埋蔵文化財研究所『平安京右京九条二坊四町跡・九条大路跡・唐橋遺跡発掘調査現地説明会資料』 2019年

[10] 『百錬抄』天福元(1233)年十二月二十四日条

[11] 「角川日本地名大辞典」編纂委員会編『角川日本地名大辞典 26(京都府)』下巻、角川書店、1982年、95~96頁

[12] 加納敬二「平安京左京九条一坊」『平成8年度京都市埋蔵文化財調査概要』(財)京都市埋蔵文化財研究所 1998年

[13] 佐比河原は、さらに南の桂川と鴨川の合流地点付近であったともいう。

[14] 古代学協会ほか編、前掲書、82~83頁

[15] 『玉葉』養和元(1181)年十二月五日条

[16] 『玉葉』寿永二(1183)年七月二十一日条

[17] 「角川日本地名大辞典」編纂委員会編『角川日本地名大辞典 26(京都府)』下巻、角川書店、1982年、78~80頁

[18] 五号 建長二(1250)年「九条道家初度惣処分状」『九条家文書 一』宮内庁書陵部、1971年

[19] 野口実・長村祥知・坂口太郎『京都の中世史3 公武政権の競合と協調』 吉川弘文館、2022年、137~139頁

[20] 下沢敦「京都篝屋の設置場所に関する試論」『早稲田大学大学院法研論集』第77号、早稲田大学大学院法学研究科、1996年

[21] 『日本歴史地名大系 27(京都市の地名)』 平凡社、1979年、1007頁

[22] 不断光院は移転前は深草(現在の伏見区深草)にあったという。

[23] 八五九号 応永七(1400)年「信賀屋地売券」『九条家文書 三』宮内庁書陵部、1973年

[24] 『東寺百合文書』ひ函/17/1/

[25] 『東寺百合文書』ホ函/53/

[26] 九条家の家司(家僕)は、唐橋氏・信濃小路氏・富小路氏など、東九条を通る小路名から取った家名が多い。

[27] 廣田浩治「中世後期の九条家家僕と九条家領荘園 九条政基・尚経期を中心に」(『国立歴史民俗博物館研究報告』第104集、国立歴史民俗博物館、2003年)

[28] 『実隆公記』明応五(1496)年一月八日条ほか

[29] 四八「山城国東九条領条里図」(東京大学史料編纂所編『日本荘園絵図聚影二 近畿一』東京大学出版会、1992年)

[30] 『日吉山王祇園祭礼図屏風』などに描かれているような釘貫(釘抜/くぎぬき)と呼ばれた木戸門(戦国時代の上京・下京の町々の両端にあったとされる)と同様のものと考えられる。

[31] 一一五一号 大永三(1523)年「石井在利跡職関係文書」「左京九条四坊一町屋地図」『九条家文書 四』宮内庁書陵部、1974年

[32] ルイス・フロイス(松田毅一・川崎桃太訳)『完訳フロイス日本史2』 中央公論新社、2000年、277~283頁

[33] 丸川義広・木下保明・辻裕司「平安京左京九条二坊」『昭和59年度京都市埋蔵文化財調査概要』(財)京都市埋蔵文化財研究所 1987年

[34] 『日本歴史地名大系 27(京都市の地名)』 平凡社、1979年、1005~1006頁

[35] 尾下成敏・馬部隆弘・谷徹也『京都の中世史6 戦国乱世の都』 吉川弘文館、2021年、186頁

[36] 山田邦和『京都の中世史7 変貌する中世都市京都』 吉川弘文館、2023年、241頁

[37] 一一七六号 享禄二(1529)年「九条家屋敷地売券案」『九条家文書 四』宮内庁書陵部、1974年

[38] 四〇号 天正十三(1585)年「九条家当知行并不知行所々差出目録案」『九条家文書 一』宮内庁書陵部、1971年

[39] 江戸時代前期に院御所の西側にあって後に鴨川の東側に移転した下屋敷とは異なる 藤田勝也「近世九條家の屋敷について」『日本建築学会計画系論文集』第79巻第697号、日本建築学会、2014年

[40] 『元禄十四年実測大絵図(後補書題 )』

[41] 『山州名跡志』(『新修京都叢書』第16巻、臨川書店、1969年、137頁)

[42] 京都市編『史料京都の歴史』第4巻(市街・生業) 平凡社、1981年、438~440頁

[43] 『訓読雍州府志』 臨川書店、1997年、229~234頁

[44] 『京羽二重』(『新修京都叢書』第2巻、臨川書店、1969年、25頁)

[45] 『京都御役所向大概覚書』下巻 清文堂出版、1973年、22頁

[46] 京都市編『史料京都の歴史』第13巻(南区) 平凡社、1992年、付録・図表25~26頁

[47] 昭和三(1928)年5月24日付け京都市告示第252号

[48] 京都市立九条中学校『九条校百年のあゆみ』 九条中学学園創設百周年記念事業実行委員会、1973年

[49] 本多清子『夢鉾 本多清子詩集』 文芸社、2002年、26~27頁

[50] 『京町鑑』(『新修京都叢書』第3巻、臨川書店、1969年、229~230頁)

[51] 建設局小史編さん委員会編『建設行政のあゆみ 京都市建設局小史』 京都市建設局、1983年、25~28頁