一条戻橋

いちじょう(の)もどりばし


一条大路(一条通)の堀川に架かる橋。
『権記』長徳四(999)十二月二十五日条に「戻橋路」とあるのが文献における初見であるといわれる。[1]

平安京の最北端にあたり、単に洛中と洛外の境界にとどまらず、魔界や霊界との境界とも考えられたことから、往来の人の言葉を聞いて吉凶を占う「橋占(はしうら)」の場所[2]となって多くの伝説を生んだ。[1]

『撰集抄』[3]・『三国伝記』[4]によれば、延喜十八(918)年に文章博士兼大学頭(もんじょうはかせけんだいがくのかみ)であった三善清行(みよしきよゆき/きよつら)が亡くなり、葬儀が行われ、その棺がこの橋に差し掛かった時に紀伊熊野から息子の浄蔵(じょうぞう)が駆けつけ、清行が死出の旅から戻ってきて浄蔵と対話したことから「戻橋」と呼ばれるようになったという。

源頼光(みなもとのよりみつ/平安時代中期の武将)の従者であった渡辺綱(わたなべのつな)がこの橋で鬼女の片腕を斬り落としたという伝説もある。[1]

『源平盛衰記』巻十によれば、陰陽師・安部清明(あべのせいめい)が12の神将(式神[しきがみ/しきじん]/陰陽師が使った鬼神)を橋の下に隠していたといい、用事のある時に召喚していたという。
建礼門院(けんれいもんいん)が安徳天皇(あんとくてんのう)を出産する際、二位殿(にいどの/建礼門院の母・平時子)が橋占をしたところ、12人の童子(神将の化身)が現れ、天皇の運命を暗示するような歌を歌ったという。

この橋の東詰には、鎌倉時代後期に橋を管理する寺が創建され、村雲大休寺(むらくもだいきゅうじ)、一条戻橋寺、雲寺、恩徳院などと呼ばれた。[5]
この寺は、唐招提寺派の律宗寺院であったという。[5]

『太平記』巻第二十六には、「一条堀川村雲の反橋(かえりばし)」とあり、反橋と呼ばれることもあったようである。

文正二/応仁元(1467)年に起こった応仁の乱では、応仁元(1467)年五月にこの橋から西軍の軍勢が攻め入り、一条大路の西洞院大路~大宮大路を中心とした地域で2日間に渡って激戦が繰り広げられ(「一条大宮の戦い」)、村雲大休寺は焼失した。[6][7]
橋は東軍の支配地域と西軍の支配地域の間に位置していたため、文明六(1474)年四月になってようやく自由に通行できるようになったという。[8]

罪人を晒す場所でもあり、天正十九(1597)年に豊臣秀吉の怒りを買って切腹を命じられた千利休の首と木像[9]がこの橋に晒されたという。[10]

戻橋については、江戸時代初期には中立売通の橋を戻橋と呼び、元和六(1620)年の徳川和子の入内に際して「萬年橋」と改称したという記録[11]や、元は土御門大路の橋を戻橋と呼んだという記録[12]もある。
応仁の乱以前の町並みを描いたとされる『中昔京師地図』にも「戻橋 一条ヨリ一町南之」と正親町小路(中立売通)の橋であったことを示唆する記載がある。

第二次世界大戦の際は、出征する兵士が無事に戻るという願いを込めてこの橋を渡ったという。
三善清行が死出の旅から戻ってきたという逸話があるためか、霊柩車は絶対にこの橋を通らないようであり、「出戻り」にならないように嫁入り前の女性や縁談に関わる者はこの橋を渡らないという慣習もある。

[1] 『日本歴史地名大系 27(京都市の地名)』 平凡社、1979年、623頁

[2] 『台記』久安六(1150)年九月二十六日条

[3] 『撰集抄』第七第五話(安田孝子ほか校注『撰集抄 下』 現代思潮社、1987年、179頁)

[4] 『三国伝記』巻第六 第九「浄蔵貴所ノ事」(玄棟撰、池上洵一校注『三国伝記 上』 三弥井書店、1976年、305~309頁)

[5] 田端泰子「橋と寺社・関所の修造事業」(門脇禎二・朝尾直弘共編『京の鴨川と橋 その歴史と生活』 思文閣出版、2001年、85頁)

[6] 『尋尊大僧正記』応仁元(1467)年五月二十九日条

[7] 『応仁記』巻第二

[8] 『東寺執行日記』文明六(1474)年四月五日条

[9] この木像は大徳寺山門の楼閣の上に安置されていたもので、後に元の場所に戻された。

[10] 『北野社家日記』天正十九(1597)年二月二十九日条には「しゆらく(聚楽)大橋」とあり、聚楽第と内裏を結ぶ重要な道路であった中立売通の橋であった可能性もあるが、定説は一条戻橋である。 京都市編『史料京都の歴史』第7巻(上京区) 平凡社、1980年、62頁

[11] 『扶桑京華志』(『新修京都叢書』第22巻、臨川書店、1972年、82頁)

[12] 『山城名勝志』(『新修京都叢書』第13巻、臨川書店、1968年、103頁)