平安時代、左京のこの小路沿いには公家の邸宅などがあり、万里小路以東には源融(みなもとのとおる/嵯峨天皇の皇子)の河原院(かわらのいん)が、この小路を中心線として四町の敷地を占めていたと推定されている。[1]
東洞院大路との交差点の北東角には近江守藤原隆時(おうみのかみふじわらのたかとき)の倉庫群「江州五倉」があり、富が蓄えられていたが、康和四(1102)年三月に放火によって焼亡したという。[2]

平安時代末期には、東洞院大路との交差点の南東角に平時忠(たいらのときただ)の邸宅、万里小路との交差点の南東角に平資盛(たいらのすけもり)の邸宅があった。[3]

『玉葉』安元三(1177)年四月二十八日条によれば、同日に富小路との交差点付近から出火し、東は富小路、西は朱雀大路の西、北は大内裏、南は六条大路までの範囲(京の約3分の1)が延焼した。
これを「安元の大火」または「太郎焼亡」と呼ぶ。

この小路の右京部分は、平安時代中期以降の右京の衰退とともに衰退していったと考えられる。

元徳二(1330)年、萬寿寺(万寿寺)が崇明門院(すうめいもんいん/後宇多上皇[ごうだじょうこう]の皇女)から土地を賜り、この小路の南側、高倉小路~東洞院大路に移転した。[4][5]
萬寿寺は至徳三(1386)年に京都五山の第五位となり、公家や足利家をはじめとする武家の崇敬を集めた。[4]

室町時代は、中心部から離れていたが、烏丸小路から猪隈小路にかけて8軒の酒屋があったようである。[6]
文正二/応仁元(1467)年~文明九(1477)年の応仁の乱はこの小路の左京部分を荒廃させた。[7]
乱後は、この小路はごく一部(高倉小路~東洞院大路が下京惣構(しもぎょうそうがまえ/下京の市街を囲った堀と土塀)の南限に位置したものの、大部分は惣構の外に位置しており[8]、この小路沿いは田園風景が広がっていたとみられる。

天正十八(1590)年、通りの左京部分は豊臣秀吉によって再開発された。[7]
萬寿寺は天正十九(1591)年、秀吉によって東福寺の北西(現在地)に移された[4]が、通り名としてこの通りに名残をとどめている。

江戸時代の万寿寺通は、東は御幸町通から西は堀川通までで[9]、井筒・水船・引板・板木彫・庭石などの職人が多かったようである[10]

現在の万寿寺通は、途切れ途切れの通りだが、全ての区間において万寿寺通と呼ばれる。
寺町通~烏丸通は仏具店が多く、烏丸通~堀川通は和装業者が多い。

[1] 古代学協会・古代学研究所編『平安京提要』 角川書店、1994年、269~283頁

[2] 『中右記』康和四(1102)年三月二十八日条

[3] 山田邦和『京都の中世史7 変貌する中世都市京都』 吉川弘文館、2023年、53頁

[4] 京都市編『史料京都の歴史』第12巻(下京区) 平凡社、1981年、226~227頁

[5] 六条内裏(六条大路と東洞院大路の北東角)に居住した媞子内親王(ていしないしんのう/白河上皇の皇女/郁芳門院[いくほうもんいん])の早逝後、六条内裏を仏閣に改めた「六条御堂」を、正嘉年間(1257~59)に禅寺に改めたもの。移転前は同地にあった。 京都市編、同上、323~324頁

[6] 『酒屋交名』(『北野天満宮史料 古文書』 北野天満宮、1978年、34~46頁)

[7] 『京都坊目誌』(『新修京都叢書』第17巻、臨川書店、1976年、301頁)

[8] 高橋康夫『京都中世都市史研究』 思文閣出版、1983年、「第30図 戦国期京都都市図」

[9] 『京町鑑』(『新修京都叢書』第3巻、臨川書店、1969年、284~285頁)

[10] 『京羽二重』(『新修京都叢書』第2巻、臨川書店、1969年、24頁)